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1953年4月頃のセレナー(キヤノン)レンズの宣伝広告です。 この頃国産でこれほど多種類の交換レンズを擁するのは、このキヤノンカメラと日本光学工業くらいでした。 セレナーはこの前年までの沈胴の50mmF1.9や85mmF2、100mmF4、135mmF4がそれぞれ世代交代で消えて行きました。 そしてこの年の夏にはセレナー銘からキヤノン銘へとも変わっていきます。
2014年1月26日 (日) Nikkor Lens | 固定リンク Tweet
某新聞に掲載の「私の履歴書」に、キヤノンの御手洗会長が執筆された時、光学関係は少なかったですが、当時の光学設計のための計算課のことが、書かれていました。
20名位の女性スタッフが、そろ盤、計算尺、手回し式の機械式計算機を使い、設計者の設計通りか、計算するため、関数表を見て関数の数字を小数点以下は4ケタで切り捨て、計算し、出て来た数字を再び関数表を見て、関数に直して、計算をしていたとのことです。
いまではコンピューターで簡単に澄んでしまう物が、ここまでの手間をかけて2年位かけて計算していたのことですから、戦前の国策会社としての日本光学の計算課には、どれくらいの職員が在籍していたのかと思ってしまいます。
投稿: ガタピシ | 2014年1月26日 (日) 15時10分
>某新聞に掲載の「私の履歴書」に、キヤノンの御手洗会長が執筆された時、・・・
1956年3月から今日まで続く日本経済新聞(朝刊)の連載読み物の「私の履歴書」のことだとすれば、キヤノン関係では1993年に賀来龍三郎氏(当時キヤノン会長)は登場していますね(歴代3人の御手洗会長の名は見出せませんでしたが)。 賀来龍三郎(かく りゅうざぶろう)氏だとしたら1954年(昭和29年)に当時のキヤノンカメラに入社していますから、1950年代前半のレンズ設計の現場を知っていてもおかしくありませんね。 ちなみに2007年の「私の履歴書」には当時のニコン相談役で元ニコン社長・会長の吉田庄一郎氏が登場していました。
投稿: MARK12 | 2014年2月 4日 (火) 00時34分
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この記事へのトラックバック一覧です: Serenarの明るく軽いレンズが発売されます!!:
久野 幹雄: ニコン―レンジファインダーニコンのすべて (★★★★★)
青山 祐介: 究極のニコンカメラ (★★★★★)
佐藤 治夫 /大下 孝一 : ニッコール千夜一夜物語―レンズ設計者の哲学と美学ニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
豊田 堅二著: ニコンファミリーの従姉妹たちニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
落合 泰之著: ニコンカメラレンジファインダーニコンを紹介。コレクターの方必携です。 (★★★★★)
コメント
某新聞に掲載の「私の履歴書」に、キヤノンの御手洗会長が執筆された時、光学関係は少なかったですが、当時の光学設計のための計算課のことが、書かれていました。
20名位の女性スタッフが、そろ盤、計算尺、手回し式の機械式計算機を使い、設計者の設計通りか、計算するため、関数表を見て関数の数字を小数点以下は4ケタで切り捨て、計算し、出て来た数字を再び関数表を見て、関数に直して、計算をしていたとのことです。
いまではコンピューターで簡単に澄んでしまう物が、ここまでの手間をかけて2年位かけて計算していたのことですから、戦前の国策会社としての日本光学の計算課には、どれくらいの職員が在籍していたのかと思ってしまいます。
投稿: ガタピシ | 2014年1月26日 (日) 15時10分
>某新聞に掲載の「私の履歴書」に、キヤノンの御手洗会長が執筆された時、・・・
1956年3月から今日まで続く日本経済新聞(朝刊)の連載読み物の「私の履歴書」のことだとすれば、キヤノン関係では1993年に賀来龍三郎氏(当時キヤノン会長)は登場していますね(歴代3人の御手洗会長の名は見出せませんでしたが)。
賀来龍三郎(かく りゅうざぶろう)氏だとしたら1954年(昭和29年)に当時のキヤノンカメラに入社していますから、1950年代前半のレンズ設計の現場を知っていてもおかしくありませんね。
ちなみに2007年の「私の履歴書」には当時のニコン相談役で元ニコン社長・会長の吉田庄一郎氏が登場していました。
投稿: MARK12 | 2014年2月 4日 (火) 00時34分