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一ノ瀬氏が行方不明になって4年後の1978年春に一ノ瀬氏の写真展が開催されました。 アサヒカメラ1978年3月号にはそれに因んで話題追跡として一ノ瀬氏と親交の深かった2氏による思い出の記事が載っておりました。
2013年7月 9日 (火) NikonF2 | 固定リンク Tweet
一之瀬泰造氏はクメール・ルージュに捕まり殺害。ポルポトによる大虐殺で一之瀬氏と交流のあったカンボジア人の先生も殺されてしまいました。
カンボジア国内での虐殺と並行して行われた統一されたベトナムへの侵攻と虐殺。ベトナムからの虐殺された人々の写真。報復措置としてベトナム軍のカンボジア侵攻。カンボジア内戦。内戦終了の時、虐殺の総責任者であるポルポトの自決後の映像と、火葬にされた映像が放送されました。
内戦終了後、一之瀬氏の遺体の発見。一之瀬泰造写真書簡集「地雷を踏んだらさようなら」に出てくる行きつけの食堂の女主人の方はあの虐殺を生き延びテレビの取材に出てインタビューに答えている映像も放送されました。
AK47の銃弾に正面から撃ち抜かれた一之瀬氏のニコンFからフィルムを取り出して、現像、プリントをするプロジェクトも行われました。
今は一之瀬泰造氏が取材した戦闘も過去のものとなり、この時代フリーランスのカメラマンが戦場を撮影した方法は閉ざされ、紛争地の取材はチームを組まなければ出来なくなり、戦闘写真や映像も掲載されたり放送されることはなくなりました。
現在、経済地理的にも重要なシリアの内戦もブラックボックスとなってしまっています。 ベトナム戦争を取材したカメラマンも高齢となり、ベトナム戦争も歴史の1ページになろうとしています。
こうした記事はベトナム戦争をいまの時代に鮮明に語り継ぐもののように思えます。
投稿: ガタピシ | 2013年7月 9日 (火) 13時28分
ポル・ポトは自決などしていません。 何ら明確な裁きを受けることもなく1,998年にのうのうと天寿を全うしていやがります。
投稿: コンタ | 2013年7月12日 (金) 18時41分
65年の生まれです。残念ながら皆さんのように写真少年ではありませんでした。小学生の頃、近所の青年が行方不明になったとの噂は微かに記憶があります。 現在、偶然の一致となりますが、一ノ瀬の歩いた有田の町並をたどることが、楽しくてなりません。
投稿: しんの字 | 2013年7月15日 (月) 17時47分
コンタさんへ。
私の記憶では自決したとの報道だったので、ちょっと調べてみました。
三つの説がありました。 コンタさんのおっしゃる通り天寿、心臓マヒによる病死説。 一つが私が書いた自決説。 最後の一つが、暗殺の説です。
遺体の爪の色からすると今の所、服毒自殺、毒殺の二つが有力なようです。
それと調べていてたら、ベトナム軍のカンボジア侵攻作戦開始の後、ポルポト政権を支持して中国軍がベトナムへの侵攻作戦開始の記述がありこのことは忘れておりました。中国軍はベトナム軍に返り討ちされました。 侵攻したルートは旧・日本軍が当時、仏領インドシナと呼ばれていたベトナムに中国から進駐したルートと同じで、ベトナム侵攻作戦開始の時の写真が、日本の仏印進駐した時の写真とほとんど違いがなかったのに驚いたことを思い出しました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月16日 (火) 12時26分
>ポルポトの自決
ポル・ポト(Pol Pot)の1998年4月15日の死去の死因ですが、組織内監禁状態のままクメール・ルージュ司令部の密林地帯への同年4月の逃避的移動にも同行させられたわけで、当時73歳と高齢で心臓も弱かったために心臓発作で死亡とされるが、毒殺や服毒自殺の説もあるとするのが一般的でしょうね。 自然死や病死でないとすれば、数々の状況から毒殺が最も説得力がありますね。 服毒自殺の可能性はより少ないと思いますが、仮に自殺だったとしてもいわゆる「自決」のニュアンスではないと思います。
>AK47の銃弾に正面から撃ち抜かれた一之瀬氏のニコンF
この銃弾を発射した銃は、AK47(AK47系も含む)ではないように思います。 一ノ瀬泰造氏が撮影した写真を基に作られた写真集「遥かなりわがアンコ-ルワット(IN QUEST OF ANGKOR VAT)」の裏表紙には、1972年10月当時に弾丸が貫通した一ノ瀬泰造氏のニコンFの正面写真が載っていて、セルフターマーレバーの端を削るような感じでレバー横のボディをほぼ正面から貫通した小さな丸い弾丸の入射口が明瞭に写っています。 ↓ http://jr6ebf.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/f_e9f2.html その弾丸の入射口はFのセルフタイマーの止めネジの約8.5mmの径よりも小さく(65%位)、5~6mmの径のように思えます。 AK47系が使用するのは、口径7.62mmの7.62×39mm弾ですから、むしろこれは口径5.56mmの5.56×45mm弾を使用するM16/M16A1ライフルの弾丸だったのではないかと思います。ニコンF前面の入射口径が小さく、背面の射出口(穴)が大きく裂けているのも小口径高速弾の特徴かとも思いました。 もし口径5.56mm弾だったとすれば、このF貫通の弾丸は、南ベトナム軍か米軍が使用するM16あるいはM16A1ライフルから発射されたものだったのでしょう。 どのような状況で被弾したのかは分かりませんが、仮に頭上に棒か何かで掲げていたとしたら、被弾時の衝撃でカメラは飛ばされたのではないかと思います。
投稿: MARK12 | 2013年7月17日 (水) 20時34分
服毒自殺の可能性は低いとしても、最期の時のちょっと前に和平に動いた一族を皆殺しにしていますから、捕まったら何が待っているかを考えれば毒を飲み、自らを決したことになるのではないかというニュアンスで自決の表現を使わせていただきました。
AK47およびその系列の銃というのが通説になっているので、AK47とさせていただきました。 入射口ですが、私のPCでは全体が黒いため、大きさまではハッキリと見えませんでした。 私はちょっと変わったものとして、線条痕がないNATO弾の弾の部分を持っているのでハッキリとした映像が見れたら比べて見てみたいと思います。
棒で上げていた状況はまずないでしょうね。 そんなことをすれば取材している部隊がここに居ますよと言わんばかりの行為ですので、その場で従軍している部隊の兵隊たちによって袋叩きあっていたと思います。
投稿: ガタピシ | 2013年7月18日 (木) 14時43分
◆ポル・ポト死因の件 ポル・ポトの死因が病死、毒殺、服毒自殺と三つの説があるのに、ガタピシさんが何故に自殺と決め付けられて、しかもクメール・ルージュ内で捕らわれの身でありながら、自殺でなく自決と言う表現にされたのかをお尋ねしたかったのです。
日本のジャーナリストの馬渕直城氏(2011年10月に67歳で死去)が1998年1月にポル・ポトに会っていますが、密林地帯への移動前の1月の時点で、十分にインタビューが出来ない程ポル・ポトの体調は悪化していたそうです。病死説もまんざら嘘でもないかもしれないと思いました。 1998年4月15日早朝にタイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流したそうですが、馬渕直城氏も直ぐに現地に入ったのか4月16日にポル・ポトの遺体を撮影し、ポル・ポトの火葬にも参列しています。火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間の一人娘(当時14歳)が立ち会いました。遺体はクメール・ルージュの兵士たちにより古タイヤと一緒に焼かれた後に埋められたと言うことですが、おそらく死因の真相は闇のままとなるでしょうね。本当に自殺だったのならそれらしい情報がもう少し伝えられると思います。
一方、毒殺説にはそれなりの可能性を感じます。 当時のポル・ポトを取り巻く状況としては、カンボジア政府との和解交渉を主張する腹心のソン・セン(Son Sen)と一族を1997年に見せしめのために処刑するなどして組織内の反感を買い、当時クメール・ルージュのナンバー2だった軍司令官タ・モク(Ta Mok)にクーデターを起こされ、裏切り者として逮捕されて終身禁固刑を宣告された捕らわれの身でした(処刑などされずに自宅監禁のような状態)。 1998年4月にタ・モクは新政府軍の攻撃を避けるために密林地帯に移動しますが、ポル・ポトもクメール・ルージュ司令部と行動を伴にさせられます。 ポル・ポト毒殺説の背景には、1998年4月9日に報じられたポル・ポトを捕らえて国際法廷の被告第一号にしようと言うアメリカ政府の方針などがあるようです。 信仰に近い己の主義・主張を最後まで変えなかったポル・ポトが逮捕を恐れて自殺するなど考え難く、逮捕が実現すれば、ポル・ポトがどんな秘密を暴露するか分からず、クメール・ルージュ出身者や関係者が多いカンボジアの政治家、クメール・ルージュが伐採する木材や採掘する宝石を安価に入手していたタイ軍、大量の武器売却を行っていた中国政府関係者などの方が心配事だったと思われます。 この方針が報じられてから1週間も経たないうちにポル・ポトが死去したタイミングの良さも問題にされているのです。 因みにタ・モクは1999年3月にタイ国境近くでカンボジア軍によって逮捕され、プノンペンに連行されて以後は捕らわれの身となりますが、2006年7月にプノンペン市内の病院で80歳で死亡するまで生きながらえています。
◆弾丸貫通Fの件 先に紹介したブログの記事で、弾丸貫通Fの正面が写っている部分のJPEG画像を個別に保存し、開いて拡大して見て下さい。入射口が白く明瞭に写っていますので、セルフタイマーレバーの止めネジの径の約8.5mmと比較すれば、AK47系で使用する7.62mm口径の径よりもずっと小さいことが一目瞭然ではないかと思います。
AK47およびその系列の銃というのが通説になっているとのことですが、使用銃がAK47あるいはAK47系と具体的な名称で出回っているのでしょうか?、あまり見た記憶がないのですが。 この弾丸貫通Fの件で、入射口径から見てAK47系の弾丸ではなく、小口径弾のM16系のものだと言う記述は以前にネット上で見たことはあります。 そのことを思い出して自分でも確認したら、やはりそうだったと言うことです。
ところでガタピシさんが手持ちのNATO弾の弾頭部分と言うのは、口径何ミリのものですか? 話の流れから5.56×45mm弾と7.62×51mm弾のどちらかのものと思います。 5.56mmでも7.62mmでも、どちらでも構いませんが、ニコンFのセルフタイマーレバーの止めネジ(飾りネジ)の直径と比べてみてください。比較的簡単に分かるかと思います。
前の私の書き込みでも断っているように弾丸貫通Fの被弾状況は分からないのですが、仮にこのFを両手で持って頭上に掲げていたのなら、巻き上げ側の上カバーの後ろや側面付近も破裂したように破壊されているので、よく手が無事だったものだ思いました。この時に手を怪我したと言うような記事も見たことがないので、手で持っていたとは信じ難いのです。そこで、最初は一脚を改造したような短い棒状の物にカメラを取り付けてケーブルレリーズか何かでシャッターを切っていたのかもしれないと想像しました。 しかし、被弾時の状況については情報がほとんど見つからないものの、2003年3月~4月に実施された「一ノ瀬泰造の遺したフィルム現像プロジェクト」での写真修復職人 村林孝夫氏の報告内容が、ひとつのヒントには成りました。 穴が開いたままのカメラから約30年後に取り出されて現像されたフィルムからは、実際に撮影されたのは4枚程度であったことが判明していますが、銃弾貫通で欠損している1枚を除く3枚の画像の内、熱でやられた1枚を除く2枚に何とか画像らしきものが認められていますね。最後の4枚目には木と猫らしいものが写っていたようですが、被弾したFは一ノ瀬泰造氏が戦闘場面を撮影中ではなく、どこかにカメラを置いていた時かもしれないと思い直しました。だとすれば一ノ瀬泰造氏自身に影響がなかったことも、撮影中にカメラが被弾したとの話が伝わっていないことも不思議ではないと思います。
投稿: MARK12 | 2013年7月19日 (金) 20時33分
私の持っているNATO弾はベトナム戦争末期頃、陸上自衛隊が輸送用トラックの新車に弾薬を満載にしてパズーカを撃ちこむ実験に使われたものですので、64式に使われていた7.62mm×51弾です。
いまとなっては細かい調査は不可能でしょうね。カメラを見ると置かれていたものに流れ弾等に当ったとしたら衝撃で飛ばされているはずですから、衝撃で吹き飛ばされて落下していると思われるので、落下の跡が見られないので、置いていたカメラに命中したとは思えません。 取材中、カメラを身に付けていた状態での被弾ではないかと思います。 弾丸は当り方によっては、ヘルメットの眉間部部に直撃しても頭部の軽傷で済んだり、第二次大戦中、今も陸上自衛隊で使われている12.7mm機関銃、これは1919年に実用化された航空機用の機関銃で、第二次大戦の時、日独の空軍が苦戦した機関銃で、ゼロ戦パイロットで撃墜王の人の手記に、無装甲の21型で流れ弾で鉄鋼弾が機体を貫通して、パラシュートだか体をコックピットの中に固定する金具に当り、軽傷で戦死をまぬがれたという奇跡に近い話もあります。一之瀬泰造氏も強運の持ち主といえます。あのカメラの状態で無傷だったのは、幸運としか言えません。
5.56mmだとすると、戦闘取材中の被弾の可能性が高いと思います。
時間があるとき、MARK12さんの言う方法で調べてみたいと思います。
投稿: ガタピシ | 2013年7月21日 (日) 07時17分
セルフタイマーの大きさからはちょっと分かり難かったので、ニコンFのネームプレートの「N」の刻印から判断しましたが、当時NATO弾規格でなかった、やはり5.56mmですね。
7.62mm弾だと「N」の刻印からはみ出ますが、入射口は「N」の刻印の中に入りますから、5.56mmですね。
一之瀬氏は待ち伏せ攻撃の十字砲火の中でも立って撮影しているので、当時の文献からすると敵のAK47のニュアンスが強かったので、AK47としました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月22日 (月) 13時45分
ニコンFのネームプレートの刻印の「N」の文字は、およそ6mm×6mm角の寸法で、5.56mmは丁度これにスッポリ収まる径ですから銘板の刻印Nは指標として良いアイデアですね。 該当銃がAK47系(AK47、改良型のAKM、中国製の56式など)と思っている人は多いかもしれませんね。その方がロマンがあるかもしれません。私も意外だった感じです。 被弾した1972年当時は、未だ小口径のAK74は登場しない時代ですから区別が付きやすいのですが、現代なら少々厄介ですね。
残る疑問は、弾丸貫通Fの被弾時の状況ですね。携帯していたのか(手に持っていたのか、肩から提げていたのか)、そうではなかったのかなどです。 仮に手に持っていて被弾時の衝撃で飛ばされて地面に落下していたとしても比較的に柔らかい地面で特に影響なかったのかもしれませんし、被弾時に落下するような場所に置かれて(あるいは収納されて)いなかったのかもしれませんね。 しかし、次の2点は考慮する必要がありそうです。 (1)弾丸貫通Fに入っていたフィルムに戦闘場面らしき映像は無かった(撮影最後の4コマ目)。 少なくとも戦闘場面を撮影中のカメラではなかったと考えられる。 (2)この弾丸貫通Fは、1973年4月下旬から5月上旬にかけて一ノ瀬泰造氏が日本に一時帰国した際に朝日新聞社の出版写真部に持ち込み、そのFはアサヒカメラ編集部の人達も見ています。 カメラが被弾時に奇跡的な幸運で一ノ瀬氏が難を逃れたとしたら、何故にそのようなエピソードが伝えられていないのか(持ち込み当日に本人も居たのに)。 それが事実ならカメラよりもむしろ幸運な体験談の方が話題になったのではないか。 私も弾丸貫通Fは一ノ瀬泰造氏が手にして戦場を撮影中に被弾したものと最近まで思っていました。しかし、色々な情報を合わせると、どうも違うのかもしれなと思い直したからです。 ガタピシさんが書かれているように例えば道路脇の少し離れた場所で望遠レンズを使って撮影する外国人のカメラマンが多いなか、一ノ瀬泰造氏は道の真ん中に突っ立て撮影するような少し変わったカメラマンだったようで、いつ被弾してもおかしくない状況が少なくなかったイメージがあるからでしょうね。 弾丸貫通Fの被弾状況は、おそらく明確な事は分からないかもしれません。
投稿: MARK12 | 2013年7月22日 (月) 22時38分
この記事の時代はまだ日中戦争、太平洋戦争を生き残った人たちが多かったことも、余り気にされなかった理由のように思われます。
一之瀬氏が取材の拠点としていたカンボジアはベトナムより危険な戦場と言われていたように思います。味方の占領地、敵の占領地がハッキリとしない競合地帯が多かったのですから。テト攻勢でフエの激戦を撮影した沢田氏も殉職したのはカンボジアでした。
流れ弾か、それともクメール・ルージュと間違われて誤射されたのかは今となっては歴史の1ページになってしまったベトナム戦争では、調査のしようがありません。
第一次・第二次ベトナム戦争で殉職したカメラマンたちの写真集「レクイエム」の序文にもありましたが、この出版がベトナム戦争を取材した者たちが編集出来る最後の機会とありましたが、確かにその通りになりました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月23日 (火) 09時50分
>第一次・第二次ベトナム戦争
第一次、第二次インドシナ戦争のことですね。 1960年~1975年のベトナム戦争やラオス内戦は、第二次インドシナ戦争に当ります。 1978年以降のベトナム・カンボジア戦争、1979年以降のカンボジア内戦や中越戦争は、第三次インドシナ戦争と総称されることもあります。
投稿: MARK12 | 2013年7月23日 (火) 20時06分
いま「題名のない音楽会」のスポンサーになっている出光が採掘権を得ているベトナム沖の海底油田のプラントがCMが流れていますが、ここは戦前から豊かな海底油田があることで知られていました。
私の生まれ育った環境の関係で、第二次インドシナ戦争の時、大人たちが「アメリカもバカだな。フランスにそそのかされて」という会話をしていました。
アジアの共産化よりもベトナム沖の石油資源の権益を手に入れるため戦争と大人たちは見ていました。 アメリカが介入するとき、日本政府はアメリカに「止めておいた方が良い」と警告を発していたとのこと。 ホーチミンもベトナムに戻ったのは太平洋戦争で当時仏領インドシナと呼ばれていたベトナムに進駐していた日本軍攪乱のため、アメリカが潜入させたとの情報もあります。
太平洋戦争中、ベトナムは平穏だったと言われていますが、治安維持のための掃討戦があり、友人のおじさんはかの地で戦死しており、仏壇に友人のおじさんと靖国神社がプリントされた写真があり一之瀬泰造氏が撮った写真とは違う戦争の生々しさを感じたのを思い出します。
投稿: ガタピシ | 2013年7月23日 (火) 21時59分
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コメント
一之瀬泰造氏はクメール・ルージュに捕まり殺害。ポルポトによる大虐殺で一之瀬氏と交流のあったカンボジア人の先生も殺されてしまいました。
カンボジア国内での虐殺と並行して行われた統一されたベトナムへの侵攻と虐殺。ベトナムからの虐殺された人々の写真。報復措置としてベトナム軍のカンボジア侵攻。カンボジア内戦。内戦終了の時、虐殺の総責任者であるポルポトの自決後の映像と、火葬にされた映像が放送されました。
内戦終了後、一之瀬氏の遺体の発見。一之瀬泰造写真書簡集「地雷を踏んだらさようなら」に出てくる行きつけの食堂の女主人の方はあの虐殺を生き延びテレビの取材に出てインタビューに答えている映像も放送されました。
AK47の銃弾に正面から撃ち抜かれた一之瀬氏のニコンFからフィルムを取り出して、現像、プリントをするプロジェクトも行われました。
今は一之瀬泰造氏が取材した戦闘も過去のものとなり、この時代フリーランスのカメラマンが戦場を撮影した方法は閉ざされ、紛争地の取材はチームを組まなければ出来なくなり、戦闘写真や映像も掲載されたり放送されることはなくなりました。
現在、経済地理的にも重要なシリアの内戦もブラックボックスとなってしまっています。
ベトナム戦争を取材したカメラマンも高齢となり、ベトナム戦争も歴史の1ページになろうとしています。
こうした記事はベトナム戦争をいまの時代に鮮明に語り継ぐもののように思えます。
投稿: ガタピシ | 2013年7月 9日 (火) 13時28分
ポル・ポトは自決などしていません。
何ら明確な裁きを受けることもなく1,998年にのうのうと天寿を全うしていやがります。
投稿: コンタ | 2013年7月12日 (金) 18時41分
65年の生まれです。残念ながら皆さんのように写真少年ではありませんでした。小学生の頃、近所の青年が行方不明になったとの噂は微かに記憶があります。
現在、偶然の一致となりますが、一ノ瀬の歩いた有田の町並をたどることが、楽しくてなりません。
投稿: しんの字 | 2013年7月15日 (月) 17時47分
コンタさんへ。
私の記憶では自決したとの報道だったので、ちょっと調べてみました。
三つの説がありました。
コンタさんのおっしゃる通り天寿、心臓マヒによる病死説。
一つが私が書いた自決説。
最後の一つが、暗殺の説です。
遺体の爪の色からすると今の所、服毒自殺、毒殺の二つが有力なようです。
それと調べていてたら、ベトナム軍のカンボジア侵攻作戦開始の後、ポルポト政権を支持して中国軍がベトナムへの侵攻作戦開始の記述がありこのことは忘れておりました。中国軍はベトナム軍に返り討ちされました。
侵攻したルートは旧・日本軍が当時、仏領インドシナと呼ばれていたベトナムに中国から進駐したルートと同じで、ベトナム侵攻作戦開始の時の写真が、日本の仏印進駐した時の写真とほとんど違いがなかったのに驚いたことを思い出しました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月16日 (火) 12時26分
>ポルポトの自決
ポル・ポト(Pol Pot)の1998年4月15日の死去の死因ですが、組織内監禁状態のままクメール・ルージュ司令部の密林地帯への同年4月の逃避的移動にも同行させられたわけで、当時73歳と高齢で心臓も弱かったために心臓発作で死亡とされるが、毒殺や服毒自殺の説もあるとするのが一般的でしょうね。
自然死や病死でないとすれば、数々の状況から毒殺が最も説得力がありますね。
服毒自殺の可能性はより少ないと思いますが、仮に自殺だったとしてもいわゆる「自決」のニュアンスではないと思います。
>AK47の銃弾に正面から撃ち抜かれた一之瀬氏のニコンF
この銃弾を発射した銃は、AK47(AK47系も含む)ではないように思います。
一ノ瀬泰造氏が撮影した写真を基に作られた写真集「遥かなりわがアンコ-ルワット(IN QUEST OF ANGKOR VAT)」の裏表紙には、1972年10月当時に弾丸が貫通した一ノ瀬泰造氏のニコンFの正面写真が載っていて、セルフターマーレバーの端を削るような感じでレバー横のボディをほぼ正面から貫通した小さな丸い弾丸の入射口が明瞭に写っています。
↓
http://jr6ebf.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/f_e9f2.html
その弾丸の入射口はFのセルフタイマーの止めネジの約8.5mmの径よりも小さく(65%位)、5~6mmの径のように思えます。
AK47系が使用するのは、口径7.62mmの7.62×39mm弾ですから、むしろこれは口径5.56mmの5.56×45mm弾を使用するM16/M16A1ライフルの弾丸だったのではないかと思います。ニコンF前面の入射口径が小さく、背面の射出口(穴)が大きく裂けているのも小口径高速弾の特徴かとも思いました。
もし口径5.56mm弾だったとすれば、このF貫通の弾丸は、南ベトナム軍か米軍が使用するM16あるいはM16A1ライフルから発射されたものだったのでしょう。
どのような状況で被弾したのかは分かりませんが、仮に頭上に棒か何かで掲げていたとしたら、被弾時の衝撃でカメラは飛ばされたのではないかと思います。
投稿: MARK12 | 2013年7月17日 (水) 20時34分
服毒自殺の可能性は低いとしても、最期の時のちょっと前に和平に動いた一族を皆殺しにしていますから、捕まったら何が待っているかを考えれば毒を飲み、自らを決したことになるのではないかというニュアンスで自決の表現を使わせていただきました。
AK47およびその系列の銃というのが通説になっているので、AK47とさせていただきました。
入射口ですが、私のPCでは全体が黒いため、大きさまではハッキリと見えませんでした。
私はちょっと変わったものとして、線条痕がないNATO弾の弾の部分を持っているのでハッキリとした映像が見れたら比べて見てみたいと思います。
棒で上げていた状況はまずないでしょうね。
そんなことをすれば取材している部隊がここに居ますよと言わんばかりの行為ですので、その場で従軍している部隊の兵隊たちによって袋叩きあっていたと思います。
投稿: ガタピシ | 2013年7月18日 (木) 14時43分
◆ポル・ポト死因の件
ポル・ポトの死因が病死、毒殺、服毒自殺と三つの説があるのに、ガタピシさんが何故に自殺と決め付けられて、しかもクメール・ルージュ内で捕らわれの身でありながら、自殺でなく自決と言う表現にされたのかをお尋ねしたかったのです。
日本のジャーナリストの馬渕直城氏(2011年10月に67歳で死去)が1998年1月にポル・ポトに会っていますが、密林地帯への移動前の1月の時点で、十分にインタビューが出来ない程ポル・ポトの体調は悪化していたそうです。病死説もまんざら嘘でもないかもしれないと思いました。
1998年4月15日早朝にタイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流したそうですが、馬渕直城氏も直ぐに現地に入ったのか4月16日にポル・ポトの遺体を撮影し、ポル・ポトの火葬にも参列しています。火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間の一人娘(当時14歳)が立ち会いました。遺体はクメール・ルージュの兵士たちにより古タイヤと一緒に焼かれた後に埋められたと言うことですが、おそらく死因の真相は闇のままとなるでしょうね。本当に自殺だったのならそれらしい情報がもう少し伝えられると思います。
一方、毒殺説にはそれなりの可能性を感じます。
当時のポル・ポトを取り巻く状況としては、カンボジア政府との和解交渉を主張する腹心のソン・セン(Son Sen)と一族を1997年に見せしめのために処刑するなどして組織内の反感を買い、当時クメール・ルージュのナンバー2だった軍司令官タ・モク(Ta Mok)にクーデターを起こされ、裏切り者として逮捕されて終身禁固刑を宣告された捕らわれの身でした(処刑などされずに自宅監禁のような状態)。
1998年4月にタ・モクは新政府軍の攻撃を避けるために密林地帯に移動しますが、ポル・ポトもクメール・ルージュ司令部と行動を伴にさせられます。
ポル・ポト毒殺説の背景には、1998年4月9日に報じられたポル・ポトを捕らえて国際法廷の被告第一号にしようと言うアメリカ政府の方針などがあるようです。
信仰に近い己の主義・主張を最後まで変えなかったポル・ポトが逮捕を恐れて自殺するなど考え難く、逮捕が実現すれば、ポル・ポトがどんな秘密を暴露するか分からず、クメール・ルージュ出身者や関係者が多いカンボジアの政治家、クメール・ルージュが伐採する木材や採掘する宝石を安価に入手していたタイ軍、大量の武器売却を行っていた中国政府関係者などの方が心配事だったと思われます。
この方針が報じられてから1週間も経たないうちにポル・ポトが死去したタイミングの良さも問題にされているのです。
因みにタ・モクは1999年3月にタイ国境近くでカンボジア軍によって逮捕され、プノンペンに連行されて以後は捕らわれの身となりますが、2006年7月にプノンペン市内の病院で80歳で死亡するまで生きながらえています。
◆弾丸貫通Fの件
先に紹介したブログの記事で、弾丸貫通Fの正面が写っている部分のJPEG画像を個別に保存し、開いて拡大して見て下さい。入射口が白く明瞭に写っていますので、セルフタイマーレバーの止めネジの径の約8.5mmと比較すれば、AK47系で使用する7.62mm口径の径よりもずっと小さいことが一目瞭然ではないかと思います。
AK47およびその系列の銃というのが通説になっているとのことですが、使用銃がAK47あるいはAK47系と具体的な名称で出回っているのでしょうか?、あまり見た記憶がないのですが。
この弾丸貫通Fの件で、入射口径から見てAK47系の弾丸ではなく、小口径弾のM16系のものだと言う記述は以前にネット上で見たことはあります。
そのことを思い出して自分でも確認したら、やはりそうだったと言うことです。
ところでガタピシさんが手持ちのNATO弾の弾頭部分と言うのは、口径何ミリのものですか?
話の流れから5.56×45mm弾と7.62×51mm弾のどちらかのものと思います。
5.56mmでも7.62mmでも、どちらでも構いませんが、ニコンFのセルフタイマーレバーの止めネジ(飾りネジ)の直径と比べてみてください。比較的簡単に分かるかと思います。
前の私の書き込みでも断っているように弾丸貫通Fの被弾状況は分からないのですが、仮にこのFを両手で持って頭上に掲げていたのなら、巻き上げ側の上カバーの後ろや側面付近も破裂したように破壊されているので、よく手が無事だったものだ思いました。この時に手を怪我したと言うような記事も見たことがないので、手で持っていたとは信じ難いのです。そこで、最初は一脚を改造したような短い棒状の物にカメラを取り付けてケーブルレリーズか何かでシャッターを切っていたのかもしれないと想像しました。
しかし、被弾時の状況については情報がほとんど見つからないものの、2003年3月~4月に実施された「一ノ瀬泰造の遺したフィルム現像プロジェクト」での写真修復職人 村林孝夫氏の報告内容が、ひとつのヒントには成りました。
穴が開いたままのカメラから約30年後に取り出されて現像されたフィルムからは、実際に撮影されたのは4枚程度であったことが判明していますが、銃弾貫通で欠損している1枚を除く3枚の画像の内、熱でやられた1枚を除く2枚に何とか画像らしきものが認められていますね。最後の4枚目には木と猫らしいものが写っていたようですが、被弾したFは一ノ瀬泰造氏が戦闘場面を撮影中ではなく、どこかにカメラを置いていた時かもしれないと思い直しました。だとすれば一ノ瀬泰造氏自身に影響がなかったことも、撮影中にカメラが被弾したとの話が伝わっていないことも不思議ではないと思います。
投稿: MARK12 | 2013年7月19日 (金) 20時33分
私の持っているNATO弾はベトナム戦争末期頃、陸上自衛隊が輸送用トラックの新車に弾薬を満載にしてパズーカを撃ちこむ実験に使われたものですので、64式に使われていた7.62mm×51弾です。
いまとなっては細かい調査は不可能でしょうね。カメラを見ると置かれていたものに流れ弾等に当ったとしたら衝撃で飛ばされているはずですから、衝撃で吹き飛ばされて落下していると思われるので、落下の跡が見られないので、置いていたカメラに命中したとは思えません。
取材中、カメラを身に付けていた状態での被弾ではないかと思います。
弾丸は当り方によっては、ヘルメットの眉間部部に直撃しても頭部の軽傷で済んだり、第二次大戦中、今も陸上自衛隊で使われている12.7mm機関銃、これは1919年に実用化された航空機用の機関銃で、第二次大戦の時、日独の空軍が苦戦した機関銃で、ゼロ戦パイロットで撃墜王の人の手記に、無装甲の21型で流れ弾で鉄鋼弾が機体を貫通して、パラシュートだか体をコックピットの中に固定する金具に当り、軽傷で戦死をまぬがれたという奇跡に近い話もあります。一之瀬泰造氏も強運の持ち主といえます。あのカメラの状態で無傷だったのは、幸運としか言えません。
5.56mmだとすると、戦闘取材中の被弾の可能性が高いと思います。
時間があるとき、MARK12さんの言う方法で調べてみたいと思います。
投稿: ガタピシ | 2013年7月21日 (日) 07時17分
セルフタイマーの大きさからはちょっと分かり難かったので、ニコンFのネームプレートの「N」の刻印から判断しましたが、当時NATO弾規格でなかった、やはり5.56mmですね。
7.62mm弾だと「N」の刻印からはみ出ますが、入射口は「N」の刻印の中に入りますから、5.56mmですね。
一之瀬氏は待ち伏せ攻撃の十字砲火の中でも立って撮影しているので、当時の文献からすると敵のAK47のニュアンスが強かったので、AK47としました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月22日 (月) 13時45分
ニコンFのネームプレートの刻印の「N」の文字は、およそ6mm×6mm角の寸法で、5.56mmは丁度これにスッポリ収まる径ですから銘板の刻印Nは指標として良いアイデアですね。
該当銃がAK47系(AK47、改良型のAKM、中国製の56式など)と思っている人は多いかもしれませんね。その方がロマンがあるかもしれません。私も意外だった感じです。
被弾した1972年当時は、未だ小口径のAK74は登場しない時代ですから区別が付きやすいのですが、現代なら少々厄介ですね。
残る疑問は、弾丸貫通Fの被弾時の状況ですね。携帯していたのか(手に持っていたのか、肩から提げていたのか)、そうではなかったのかなどです。
仮に手に持っていて被弾時の衝撃で飛ばされて地面に落下していたとしても比較的に柔らかい地面で特に影響なかったのかもしれませんし、被弾時に落下するような場所に置かれて(あるいは収納されて)いなかったのかもしれませんね。
しかし、次の2点は考慮する必要がありそうです。
(1)弾丸貫通Fに入っていたフィルムに戦闘場面らしき映像は無かった(撮影最後の4コマ目)。 少なくとも戦闘場面を撮影中のカメラではなかったと考えられる。
(2)この弾丸貫通Fは、1973年4月下旬から5月上旬にかけて一ノ瀬泰造氏が日本に一時帰国した際に朝日新聞社の出版写真部に持ち込み、そのFはアサヒカメラ編集部の人達も見ています。
カメラが被弾時に奇跡的な幸運で一ノ瀬氏が難を逃れたとしたら、何故にそのようなエピソードが伝えられていないのか(持ち込み当日に本人も居たのに)。
それが事実ならカメラよりもむしろ幸運な体験談の方が話題になったのではないか。
私も弾丸貫通Fは一ノ瀬泰造氏が手にして戦場を撮影中に被弾したものと最近まで思っていました。しかし、色々な情報を合わせると、どうも違うのかもしれなと思い直したからです。
ガタピシさんが書かれているように例えば道路脇の少し離れた場所で望遠レンズを使って撮影する外国人のカメラマンが多いなか、一ノ瀬泰造氏は道の真ん中に突っ立て撮影するような少し変わったカメラマンだったようで、いつ被弾してもおかしくない状況が少なくなかったイメージがあるからでしょうね。
弾丸貫通Fの被弾状況は、おそらく明確な事は分からないかもしれません。
投稿: MARK12 | 2013年7月22日 (月) 22時38分
この記事の時代はまだ日中戦争、太平洋戦争を生き残った人たちが多かったことも、余り気にされなかった理由のように思われます。
一之瀬氏が取材の拠点としていたカンボジアはベトナムより危険な戦場と言われていたように思います。味方の占領地、敵の占領地がハッキリとしない競合地帯が多かったのですから。テト攻勢でフエの激戦を撮影した沢田氏も殉職したのはカンボジアでした。
流れ弾か、それともクメール・ルージュと間違われて誤射されたのかは今となっては歴史の1ページになってしまったベトナム戦争では、調査のしようがありません。
第一次・第二次ベトナム戦争で殉職したカメラマンたちの写真集「レクイエム」の序文にもありましたが、この出版がベトナム戦争を取材した者たちが編集出来る最後の機会とありましたが、確かにその通りになりました。
投稿: ガタピシ | 2013年7月23日 (火) 09時50分
>第一次・第二次ベトナム戦争
第一次、第二次インドシナ戦争のことですね。
1960年~1975年のベトナム戦争やラオス内戦は、第二次インドシナ戦争に当ります。
1978年以降のベトナム・カンボジア戦争、1979年以降のカンボジア内戦や中越戦争は、第三次インドシナ戦争と総称されることもあります。
投稿: MARK12 | 2013年7月23日 (火) 20時06分
いま「題名のない音楽会」のスポンサーになっている出光が採掘権を得ているベトナム沖の海底油田のプラントがCMが流れていますが、ここは戦前から豊かな海底油田があることで知られていました。
私の生まれ育った環境の関係で、第二次インドシナ戦争の時、大人たちが「アメリカもバカだな。フランスにそそのかされて」という会話をしていました。
アジアの共産化よりもベトナム沖の石油資源の権益を手に入れるため戦争と大人たちは見ていました。
アメリカが介入するとき、日本政府はアメリカに「止めておいた方が良い」と警告を発していたとのこと。
ホーチミンもベトナムに戻ったのは太平洋戦争で当時仏領インドシナと呼ばれていたベトナムに進駐していた日本軍攪乱のため、アメリカが潜入させたとの情報もあります。
太平洋戦争中、ベトナムは平穏だったと言われていますが、治安維持のための掃討戦があり、友人のおじさんはかの地で戦死しており、仏壇に友人のおじさんと靖国神社がプリントされた写真があり一之瀬泰造氏が撮った写真とは違う戦争の生々しさを感じたのを思い出します。
投稿: ガタピシ | 2013年7月23日 (火) 21時59分