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ニコン物語

カメラレビュー12号からタイトルのような連載が始まりました。12号はその第一話となります。
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これは後に明るい暗箱こぼれ話などと纏められて、タイトルの書籍が発行されましたのは皆さんご存知の通りです。

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コメント

ここに出てくるバー・アンド・ストラウド社の測距儀は日本海軍だけでなく、海戦を戦ったロシアの軍艦にも積まれています。

当時の日本は新しい技術にどん欲で、この測距儀の導入も早く、イギリスに発注された巡洋艦「吉野」に装備され、シリアル・ナンバーは「4」と伝えられています。
吉野の受け取り、性能試験を行った廻航要員の中に、三笠艦上に居るこの海戦の作戦を練り上げたことで有名な、連合艦隊参謀の秋山少佐がおり、吉野受け取りにイギリスに行った当時少尉だった秋山少佐がおり、秋山少尉はバー・アンド・ストラウド社の測距儀の使用方法と整備方法研修のために行っています。
吉野は日露戦争で、戦没しています。

当時、プリズム入りの双眼鏡は高価で、双眼鏡も自費で購入していたのでしょうね。
艦橋に立つ連合艦隊の司令部要員の双眼鏡は統一されてなく、東郷司令長官だけプリズム入りの双眼鏡なのですから。
もう戦前の海軍基地と工廠だった横須賀を知る人は少なくなりましたが、東郷平八郎大将のプリズム入りの双眼鏡の話は、戦前の横須賀で育ったり生活していた人たちの間では有名な話でした。
プリズム入りの双眼鏡は遠くまで見えるものの欠点として、当時コーティングの技術がなく四隅はぼやけて見えたと伝えられています。

私の父などは戦争の影響を受けた関係で、旧制の商業の卒業証書を見ると、繰り上げ卒業となっており、兵役まで徴用されるのは嫌だとゼロ戦の20ミリ機銃の製造、日本に5台しかないスイス製のエンジンのクランクの一体研磨が出来る工作機械の内、3台ある工場に就職したとき、研修で海軍工廠に行った時、当時も今も機密に属する潜水艦、当時の伊号潜水艦に祖父も海軍工廠に勤めていた関係もあり本来ならば中に入れない伊号潜水艦の中にこっそりと入れてもらっているので、この所もっとよく聞いておけばよかったと思います。

子どもの時、近所の八百屋の親父さんはドイツ人技師の招へいで製造された潜望鏡の第一号を装備した伊1号潜水艦の乗員で、しかもガダルカナル島で沈めれらた時の乗員でした。

かなり脱線した話ですが、資料を読む時も身近だったことが重なってきます。

投稿: ガタピシ | 2013年1月 7日 (月) 15時24分

東郷平八郎司令長官が当時愛用していた双眼鏡は、カール・ツァイス社製の倍率が5倍と10倍に切り替えできる変倍率双眼鏡(対物側に左右各2本のレンズが突き出ています)ですね。もちろん私物でした。
横須賀の記念艦「三笠」の所蔵品として大切に保存され、艦内展示されています。

ツァイス社製の双眼鏡は当時大変高価でしたが、その他の外国製品と比べても高性能だったために高級軍人などがこぞって購入したようです。当時は小西六右衛門の小西本店が日本総代理店となって販売していましたが、需要に供給が追い付かない状況だったようです。
双眼鏡が官給品として広く行き渡るのは、高性能で低コストなものが国内で大量生産できるようになった昭和初期以降ですね。

記念艦「三笠」の艦内には日本海海戦時に三笠で使用されたものと同型のBarr & Stroud社の基線長4.5feet(約1.37m)の測距儀で、日本名「武式1米半測距儀」や可搬型測距儀の「FT参七型」、「FT弐七型」も展示されています。
この武式1米半測距儀等の遠距離での精度(平均誤差)ですが、角度誤差を距離に換算すると最良の状態でも距離4000mで約115m、距離6000mで約205m、距離8000mでは約300mとなります。日本海海戦での有名な東郷ターン開始時は距離約8000m、そして日本側の初弾発砲距離とされる距離約6400mでは、試射としての初弾発砲時ならともかく、その後の射撃における距離測定では必要な精度(50mとか100mのレベル)は得られないし、また目盛読み取り誤差の点からも実際の射撃に必要な正確な値を出したとは思えないと言う意見があります。
日本海海戦でのロシア艦に対する砲弾命中率の高さは、使用測距儀の精度を超えたプラスアルファの要因があったものと思われます。それは測距や砲撃に関する知識や練度の高さ、さらに運の良さなども含めた別の要因が加わっているのでしょう。

仮にロシア艦側使用のBarr & Stroudの測距儀が同等性能で良好に整備され、観測員がもっと使用方法を熟知してもう少し練度が高く、本来の性能に近い測定値を出していたとしてもそれだけでは結果に大差は出なかったかもしれません。

巡洋艦吉野の戦没ですが、日露戦争時に旅順沖から裏長山列島へ向かう途中に濃霧のなか巡洋艦春日の艦首が左舷中央部に衝突し、何と吉野は艦長以下三百余名を乗せたまま沈没しています。

投稿: MARK12 | 2013年1月 9日 (水) 19時58分

訂正を兼ねて追記します。
東郷司令長官使用のツァイス社(Carl Zeiss,Jena)製の5倍/10倍変倍双眼鏡(Marine-Glas m.Revolver Vergr.=5 & 10')ですが、突き出ている左右各2本のレンズは接眼レンズでした(細長い方が5倍用とのこと)。
回転切り替え式ですが、使用しない側の接眼レンズは覗くのになるべく邪魔にならないように回転面は斜めになっていますね。

小西本店ではドイツのツァイス社と英国のロス(Ross)社の望遠鏡を1900年(明治33年)以降輸入していましたが、日露戦争の直前にツァイス社からプリズム式双眼鏡と測距儀を取り寄せ販売したとあります。
双眼鏡は、倍率6倍と8倍のものを各50個、5倍/10倍変倍双眼鏡を5個となっています。
東郷司令長官購入のものは、この5個のうちの1個なのでしょうね。
ツァイス製双眼鏡は当時の海軍軍人の間で大評判になり注文が殺到したそうです。
当時のツァイス製双眼鏡がどの程度高価だったかですが、
塚本克熊中尉が同じ双眼鏡を当時の価格350円で購入したとあり、その頃の中尉の給料の1年分だったそうです。(この頃の大卒の初任給は30円~40円程度)
1905年の日本海海戦の前年の1904年のZEISS双眼鏡カタログでは、8x20(倍率8倍、口径20mm)が130マルク、5/10x24(5倍/10倍変倍、口径24mm)は240マルクと記載されています。

上記について詳しくはこちらを参照ください。
 ↓
http://www.geocities.jp/ame0621/oldbino7.html

投稿: MARK12 | 2013年1月11日 (金) 19時37分

日本側の砲弾の命中精度が良かったのは、バルチック艦隊との決戦を行う前に、203高地確保による旅順艦隊の壊滅により、それまでの海戦と旅順港包囲戦で被弾した個所など、傷んだ箇所などをドッグに入れて整備。

艦船の修理、整備が整った後、バルチック艦隊との海戦の前に十分な訓練が出来た事もあると思います。

また日露両軍で使用したバー・アンド・ストラウド社製の測距儀を日本海軍では主力艦に被弾時備え複数装備していたこと。
また日本海軍は下瀬火薬使用の砲弾で、船の通信線にふれても爆発するようになっており、測距儀を操作する士官の無力化などがあったと思います。

またこの海戦では第二次大戦の独軍の戦車部隊が対戦車戦で最も優れた戦車戦の戦術として完成させた戦術を日本海軍は確立していたこともあったと思います。

この海戦は戦史に残る完全試合になりましたが、ロシア海軍の上級士官から下級士官まで勝てる見込みのない海戦になると思っていたとゆわれています。

投稿: ガタピシ | 2013年1月13日 (日) 15時48分

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