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カメラレビュー連載のニコン物語3は最初のニッコールレンズなどにふれていました。
2013年1月13日 (日) Nikon etc. | 固定リンク Tweet
八八艦隊とは、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核とする艦隊案でしたが、第二次大戦前に行われたロンドン軍縮会議の中で廃案となりました。
軍縮案に批准調印した堀大将は、日本の経済力では建造するのにも無理があるのに、戦力として維持することは日本経済の破たんすることを予見しての調印だったとゆわれています。
日本の空母、赤城、加賀は、八八艦隊の戦艦の艦体を利用して空母になりましたが、これは何も日本だけでなく、正規空母を保有した海軍国では同じことをしています。 この後、各国、空母をはじめとする野放しになっていた補助艦艇の建艦競争に歯止めをかけるワシントン軍縮会議。
日本光学としては、海軍の建艦政策が変わったのですから、この記事にあるように経営は大変の言葉に尽きたと思います。
またこの時代は第一次世界大戦バブルが弾け、大恐慌。 日本では農村が惨憺たることになり、当時は公娼制度があったので、娘の身売り、一家心中が新聞をにぎわせていた時代であり、山田洋次監督が選んだ日本映画百選の中にある「拝啓、天皇陛下様」の原作者の残した兵隊物のエッセイを読んでみるのも良いと思います。 敗戦国だったドイツは、ハイパーインフレとなり、子どもたちが札束をブロックにして遊んでいる写真がありますが、これでもパン一つ買えないとゆうのですから。 ナチスドイツになり給料は減ったものの安定した収入、勤務成績が優秀な労働者たちには海外旅行までプレゼントされてます。 世界経済の通貨の還流が途絶えた時代なので、世界経済の敗者やはじかれた国は戦争に経済復活をかけ、また国よってはその経済復活戦争に圧力をかけて宣戦布告させる国も出てきても仕方がなかったのでしょう。 まあその結果が、あの第二次大戦なのですが。
今回のニコン物語は、その戦後に民生品のカメラ用レンズ製造の礎が築かれたことが書かれているのが、興味深いですね。
投稿: ガタピシ | 2013年1月13日 (日) 16時47分
こちらの2011年2月 8日掲載の記事「ツェッペリンのロンドン空襲 (藤井光蔵ロンドン通信)」へのコメントで、「第一次世界大戦後に建造された民間用のLZ127 グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯号)は、世界一周時に初の太平洋横断無着陸飛行を行う前に日本にも立ち寄りました(霞ヶ浦航空隊基地に1929年8月19日に到着し、23日に出発)。」と書きましたが、今回の「ニコン物語3」の最後の頁に当時の昭和4年8月19日の朝日新聞夕刊記事が挿入されており、1面トップに「大歓呼に迎へられてZ伯号帝都の空に入る 午後四時三十五分・・・、巨体悠々旋回航進す」の見出しで写真や飛行経路図付で大きく報じられています。やはり当時の報道紙面の記事は参考になりますね。
当時、東京などからの見物人のため上野から土浦への臨時列車も運行され、ツェッペリン伯号を見るための観衆は30万人にも及んだそうです。 又、「ニコン物語3」の記事にもある霞ヶ浦飛行場(霞ヶ浦航空隊)の飛行船用の巨大格納庫は第一次世界大戦の戦後処理のために1919年6月に調印された連合国とドイツとの講和条約のヴェルサイユ条約に基づくドイツからの戦利品として運ばれてきたものですね(第二次大戦後に解体されていますが)。
投稿: MARK12 | 2013年1月15日 (火) 20時53分
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この記事へのトラックバック一覧です: ニコン物語・3:
久野 幹雄: ニコン―レンジファインダーニコンのすべて (★★★★★)
青山 祐介: 究極のニコンカメラ (★★★★★)
佐藤 治夫 /大下 孝一 : ニッコール千夜一夜物語―レンズ設計者の哲学と美学ニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
豊田 堅二著: ニコンファミリーの従姉妹たちニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
落合 泰之著: ニコンカメラレンジファインダーニコンを紹介。コレクターの方必携です。 (★★★★★)
コメント
八八艦隊とは、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核とする艦隊案でしたが、第二次大戦前に行われたロンドン軍縮会議の中で廃案となりました。
軍縮案に批准調印した堀大将は、日本の経済力では建造するのにも無理があるのに、戦力として維持することは日本経済の破たんすることを予見しての調印だったとゆわれています。
日本の空母、赤城、加賀は、八八艦隊の戦艦の艦体を利用して空母になりましたが、これは何も日本だけでなく、正規空母を保有した海軍国では同じことをしています。
この後、各国、空母をはじめとする野放しになっていた補助艦艇の建艦競争に歯止めをかけるワシントン軍縮会議。
日本光学としては、海軍の建艦政策が変わったのですから、この記事にあるように経営は大変の言葉に尽きたと思います。
またこの時代は第一次世界大戦バブルが弾け、大恐慌。
日本では農村が惨憺たることになり、当時は公娼制度があったので、娘の身売り、一家心中が新聞をにぎわせていた時代であり、山田洋次監督が選んだ日本映画百選の中にある「拝啓、天皇陛下様」の原作者の残した兵隊物のエッセイを読んでみるのも良いと思います。
敗戦国だったドイツは、ハイパーインフレとなり、子どもたちが札束をブロックにして遊んでいる写真がありますが、これでもパン一つ買えないとゆうのですから。
ナチスドイツになり給料は減ったものの安定した収入、勤務成績が優秀な労働者たちには海外旅行までプレゼントされてます。
世界経済の通貨の還流が途絶えた時代なので、世界経済の敗者やはじかれた国は戦争に経済復活をかけ、また国よってはその経済復活戦争に圧力をかけて宣戦布告させる国も出てきても仕方がなかったのでしょう。
まあその結果が、あの第二次大戦なのですが。
今回のニコン物語は、その戦後に民生品のカメラ用レンズ製造の礎が築かれたことが書かれているのが、興味深いですね。
投稿: ガタピシ | 2013年1月13日 (日) 16時47分
こちらの2011年2月 8日掲載の記事「ツェッペリンのロンドン空襲 (藤井光蔵ロンドン通信)」へのコメントで、「第一次世界大戦後に建造された民間用のLZ127 グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯号)は、世界一周時に初の太平洋横断無着陸飛行を行う前に日本にも立ち寄りました(霞ヶ浦航空隊基地に1929年8月19日に到着し、23日に出発)。」と書きましたが、今回の「ニコン物語3」の最後の頁に当時の昭和4年8月19日の朝日新聞夕刊記事が挿入されており、1面トップに「大歓呼に迎へられてZ伯号帝都の空に入る 午後四時三十五分・・・、巨体悠々旋回航進す」の見出しで写真や飛行経路図付で大きく報じられています。やはり当時の報道紙面の記事は参考になりますね。
当時、東京などからの見物人のため上野から土浦への臨時列車も運行され、ツェッペリン伯号を見るための観衆は30万人にも及んだそうです。
又、「ニコン物語3」の記事にもある霞ヶ浦飛行場(霞ヶ浦航空隊)の飛行船用の巨大格納庫は第一次世界大戦の戦後処理のために1919年6月に調印された連合国とドイツとの講和条約のヴェルサイユ条約に基づくドイツからの戦利品として運ばれてきたものですね(第二次大戦後に解体されていますが)。
投稿: MARK12 | 2013年1月15日 (火) 20時53分