« SMAIL機種コード表 | トップページ | ニコンF2フォトミックS 他新製品情報 »
東京オリンピックの頃、報道機関などに持て囃されたニコンF用超望遠レンズの使用説明書です。
2011年6月 3日 (金) Nikkor Lens | 固定リンク Tweet
●いつも楽しく拝見しております。興味深い資料のご紹介、感謝至極です。 ●フォーカシングユニットを使った超望遠レンズはF3登場のころまでカタログや「新・ニコンの世界」に載っていたと思いますが、流石にこれを使用している現場は見たことが無く、ましてや使用説明書を目にするなど一生無いと思っていました・・・食い入るように拝見させていただきました。 ●フォーカシングユニットとレンズ本体はねじ切りマウントで、いくら(ウルトラ・マイクロ・ニッコール並の)枠屋さんが設計・製造したとしても、戸外の報道使用ではガタや狂いなどは避けられないと思うのですが、そのあたりの使用感や苦労話などもお伺いできればなぁと思います。F値も決して大きくなく、手動絞りで、更にはEDガラスや蛍石を使用していなかったので、色にじみなども想像され、使用するカメラマンさんや写真をチョイスされる方々もノウハウがなければ使いこなせなかったのでしょうか?
投稿: ふみとパパ | 2011年6月 4日 (土) 00時53分
私自身はAi化されたマウントユニット(2型)を使うバージョンの600mmF5.6を70年代後期に使ったことがあります。ピントリングも重いので、ニコンさんに特別お願いして「軽め」に調整してもらいましたが、それでもIFのものに比べると「力技」でのフォーカシングになります。 私が新聞社に入った頃、今回掲載されている初期型の望遠レンズを先輩達が「浅間山荘事件」で使ったと聞きました。極寒の日照時間の短い季節に、山荘で犯人が時折顔を出す尾根の面で各社が同様の600mmから800mmの望遠レンズを構えたそうです。撮影したフィルムとプリント残りは勉強のためじっくり見ました。トライXを2倍か4倍に増感現像した上、取材現場での速攻処理で粒子が荒く、その上にかなりのトリミングでプリントは粒子だらけで「とりあえず犯人の顔が写っている」という状態でした。それは、35mmフィルム1コマの10%程度の部分をトリミングしたもので、通常の写真愛好家では「あり得ない」例外的な処理ですね。そこまで過酷な条件でも人物の顔が判別できる程このレンズは高性能だったのですね。 後にいくつかのレンズユニットがED化されて色収差が改善されたそうですが、その頃にはスポーツ撮影のためにピントリングを軽くする要望の方が高く、IFの方が実用面で評価されました。 話は戻りますが、私が使った600mm(マウントユニット2型)は旧型レンズを新型レンズ(IF)に入れ替えている時期のものだったと記憶しています。 ちなみに、ボディはF2で、望遠用のDタイプ・スクリーンを装着しました。
投稿: しんじ | 2011年6月 4日 (土) 23時31分
浅間山荘事件は懐かしいとゆうより、私には生々しいです。
浅間山荘の位置。警官隊および報道の方のいた所からするとしんじさんの分析通りになると思います。 私もトライXを4倍に増感して人工光源下で相反則不規でISO800ぐらいになるところで、50ミリF1.4を生かしての撮影していたのを思い出します。当時の単体露出計はそこのところを補正してくれていたので、いまのデジ露出計では補正していますが。
この後、操作が進むにつれ総括の名の元に殺されたメンバーの中に従兄弟たちの同級生もおりましたし、連合赤軍に合同しなかった先輩もおり、公安(前身は特高)に追われることのすごさを知っているからです。
1枚の写真の向こうには色々な人たちのドラマがあることを知った事件でもありました。
しんじさんの先輩でこの事件のとき、使えた最高の機材でありながら、制約だらけでもありながら、撮影をした努力と工夫と自分の持つ技術の総てとそれ以上の工夫をしたことが伝わってきます。
投稿: ガタピシ | 2011年6月 5日 (日) 09時24分
ガタピシさん、悲惨な事件の例でこのレンズを語ってしまいましたが、とにかくユニット付きのこの望遠シリーズは金属のかたまりで重くて機動性に欠きました。当時は現在のような軽快な動きの雲台、三脚の選択肢もなく、ブレが何より心配でした。ですので、撮影位置を決めたら三脚を立て、なお三脚に重りを足したりしてひっくり返らないようにします。現在のレンズのように、三脚ごとかついで移動するのは困難でした。 ただ、ボディ側のフォーカシングユニットは共通なので、前玉だけ揃えれば他の焦点距離に変身します。このマウント部分を切り落として改造、ペンタの6X7用に作り替えてくれる業者もありました。野鳥撮影でペンタ用にユニットを改造したカメラマンがいました。
投稿: しんじ | 2011年6月 6日 (月) 01時45分
フォーカッシングユニット併用のニッコール超望遠レンズは、レンズユニットを交換するというやり方の他にゼンザブロニカ用のフォーカッシングユニットに交換して35mm判と6×6判でレンズユニットを共有するという手もありましたね。 レンズユニットの600mm F5.6、800mm F8、1200mm F11は、1974年に多層膜化されてCタイプとなった翌年の1975年にはEDレンズ使用のタイプとなりましたが、更にその翌年の1977年にはIF方式となったAi EDの400mm F3.5、600mm F5.6が登場し、1979年には同様に800mm F8と1200mm F11が加わっています。
野外などで超望遠レンズを使う人を見かける頻度が上がったのは、これらのニコンのIF方式のEDレンズやキヤノンのRF(リヤフォーカス)式の白レンズなどが登場してからでした。 私が最初にIF方式の超望遠レンズを触った時に常用レンズとほぼ同じ直径のフォーカスリング、そして指一本でも楽に回せるその感触に驚いたものです。 その時に長玉を使うなら絶対にIF/RF方式のレンズを入手すべしと思いました。
投稿: MARK12 | 2011年6月 6日 (月) 20時41分
いまは三脚の選択肢もありますが、選択肢のなかったとき、プロが三脚の重さを増すために使うアクセサリーもありました。
写真学校に行っていたオジが行っていたこともあり、スリックのプロも使った三脚を使っていましたが、フォーカシングユニットを使う超望遠ではもし使うことができたなら、ヒックリかえらないようにする工夫のため、自分で三脚の重さを増やすためのものを自作しなければならないこと。 撮影ポイントの移動のときなどは、オリンピックなどの競技ならまだよいですが、浅間山荘事件のような現場では、重機関銃の移動ではありませんが、迅速なポイント移動には班単位の人数が欲しかったでしょうね。先輩カメラマンは。しかも被写体は散弾銃を持っていて、殉職された警官もいたのですから。
私は3Kで在庫の管理や、資材の搬入をしていたので、この機材を見るとカメラマンの苦労がよく分かります。
また焦点距離が長くなれば、ブレ対策は困難を極めたことは容易に想像がつきます。 しかもカメラとこのレンズを支える三脚に不安があるとなれば、なおさらだったように思います。
投稿: ガタピシ | 2011年6月 7日 (火) 07時26分
●みなさんのコメント興味深く読ませていただきました。浅間山荘での報道現場は光量が限られ、逃せない瞬間を狙いながらカメラブレを起こさず犯人や警官隊を狙いながらシャッターを押すというのは正直想像出来ません。トライXの4倍増感と見ますと明るいと感じますが、開放F値の低さを考えるとシビアな条件が緩和されるにはほど遠そうです。現場での現像というのも驚きです。ニコンのフィルム電送装置の登場はずっと後のことでしょうから、ダークバックやアルミタンク、D76現像液の粉、紙焼き用の引伸器なども持参されていたのでしょうか? ●もう一つ興味深かったのは、フォーカシングユニットを改造してペンタ6×7に装着するということです。レンズ自体のイメージサークルを大きくとって設計されていたのでしょうか。初代サンニッパもブロニカ中判カメラへの流用を考えた大きなイメージサークルを有すると伺いましたが、同じ考え方なのでしょうね。深いですね。
投稿: ふみとパパ | 2011年6月10日 (金) 00時26分
浅間山荘のような事件では、カメラ記者と同時に伝送技術者も同行しました。暗室、伝送機能を備えた特殊車も軽井沢まで出動しましたが、事件が予想以上に長引き、現場の気温も極めて低いため、山荘近くの別の企業の寮と軽井沢の旅館を確保して取材基地を構えました。撮影したフィルムの現像はまず近くの寮で行い(手現像)、フィルムはまだ乾かないうちに引き伸ばし機で紙焼き(プリント)します。その紙焼きを白黒電送機にかけて各本社に送ります。最速で撮影後約1時間以内に本社に写真を送ります。最優先でないフィルムはすぐ現像しないか、軽井沢の本部に車で運んで処理または連絡員が本社に運びます。 朝刊、夕刊、地元版の原稿締め切り時間を勘案して、撮影フィルムの内容を選別して現像していきます。出張用の現像キットは、粉末現像液など市販のものです。普段から制限時間内に現像、引き伸ばしする訓練をさせられました。 紙焼きの伝送機は、電話回線につないで、ドラムに巻いた紙焼きを5分くらいかけて送る機械です。紙焼きサイズが大きいと伝送に時間がかかるので、カビネサイズを目安にします。後にニコンのNTシリーズ電送機が出るまでは、警察などもこの種の電送機で写真画像をやりとりしていました。
投稿: しんじ | 2011年6月11日 (土) 23時08分
この紙焼きの電送機は送るときにピーッって音がするので、ベトナム戦争でアメリカ軍の敗勢が強くなるとこの音がすると、国際電話の回線を切られるので、写真を電送する技術者はお互い送られたかどうかの確認のこの音がしないように写真を電送したとゆう話を思い出します。
この戦争は報道に関してはほぼ自由に取材できた唯一の戦争でしたが。
でもまあこれなんかかわいいものです。 中国で働いていた友人にメールで中国情勢どうなの、って内容になると、メールが繋がらくなります。だから友人は複数のメアド使っていました。
600ミリにしても、800ミリにしても、300ミリを使った時の経験からすると、35ミリのネガの10%のトリミングしかなかったでしょうね。
ベトナム戦争の転機となったテト攻勢のとき、フエの激戦を撮った沢田カメラマンの写真とを対比してみると、つくづく思います。 手榴弾を北ベトナム軍陣地に投げる瞬間の兵士を至近距離から援護している海兵隊員の側から撮っていますが、これなど北ベトナム兵は写ってはいませんが、この瞬間停戦となったとするならば、お互いの顔もよく見えたことでしょう。
当時、新聞などに出た犯人の写真をこの方法で撮らなければ、カメラマンが散弾銃で撃たれて殉職者が多数出たと思います。
投稿: ガタピシ | 2011年6月13日 (月) 08時10分
>この紙焼きの電送機は送るときにピーッって音がするので、・・・ >・・・写真を電送する技術者はお互い送られたかどうかの確認のこの音がしないように写真を電送した
ちょっと分かり難い文章なのですが、 この「ピーッって音」というのが写真電送時の信号音(変調音)のこととすれば、この変調トーン(ピッコロ、ピッコロなどとも表される)は、止めるわけにはいきませんね。 印画紙を使う写真電送機でキャビネ判を電話回線で1枚送るのに5~6分かかるわけですから、信号音をモニターされていれば目立つでしょうね。 もしかしたら写真電送の前後で交わされる確認用の会話の内容あるいは、(もしあるのなら)固有の識別信号とかに気を付けようということではなかったのでしょうか?
ちなみに当時の日本でも写真電送時の長時間の変な信号音に疑問をもった電話局の人が、確認のために「もしもし、もしもし」などと回線に声を入れたりしないように祈ったそうです。 ノイズが入ると白黒写真の場合は白や黒の線が出てしまいますので、最初からやり直しになったりしたそうです。
投稿: MARK12 | 2011年6月14日 (火) 21時53分
私は写真はあくまで趣味ですので想像するしかありませんが、当時の資料には名人芸とありますから、変調音をカットする改造を現地でした可能性もあったかもしれません。
送る側も受ける側も当局側に察知されないようにするのに、大変な緊張を必要としたことがベトナム戦争が終結した後、出た出版物に書かれていたように思います。
資料の喪失は3.11のような自然災害だけではなく、金融機関による貸しはがしもあります。それも犯罪行為であったり、大口融資先をなんとかするためだとか、不条理なものが多いです。
投稿: ガタピシ | 2011年6月16日 (木) 09時45分
本日、銀座のニコンハウスに寄ったら、フォーカシングユニット2型付きの600ミリが1本ありました。7万円弱でした。
投稿: しんじ | 2011年6月18日 (土) 19時58分
この記事へのコメントは終了しました。
この記事へのトラックバック一覧です: フォーカシングユニットによるNikonF用超望遠レンズ 使用説明書:
久野 幹雄: ニコン―レンジファインダーニコンのすべて (★★★★★)
青山 祐介: 究極のニコンカメラ (★★★★★)
佐藤 治夫 /大下 孝一 : ニッコール千夜一夜物語―レンズ設計者の哲学と美学ニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
豊田 堅二著: ニコンファミリーの従姉妹たちニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
落合 泰之著: ニコンカメラレンジファインダーニコンを紹介。コレクターの方必携です。 (★★★★★)
コメント
●いつも楽しく拝見しております。興味深い資料のご紹介、感謝至極です。
●フォーカシングユニットを使った超望遠レンズはF3登場のころまでカタログや「新・ニコンの世界」に載っていたと思いますが、流石にこれを使用している現場は見たことが無く、ましてや使用説明書を目にするなど一生無いと思っていました・・・食い入るように拝見させていただきました。
●フォーカシングユニットとレンズ本体はねじ切りマウントで、いくら(ウルトラ・マイクロ・ニッコール並の)枠屋さんが設計・製造したとしても、戸外の報道使用ではガタや狂いなどは避けられないと思うのですが、そのあたりの使用感や苦労話などもお伺いできればなぁと思います。F値も決して大きくなく、手動絞りで、更にはEDガラスや蛍石を使用していなかったので、色にじみなども想像され、使用するカメラマンさんや写真をチョイスされる方々もノウハウがなければ使いこなせなかったのでしょうか?
投稿: ふみとパパ | 2011年6月 4日 (土) 00時53分
私自身はAi化されたマウントユニット(2型)を使うバージョンの600mmF5.6を70年代後期に使ったことがあります。ピントリングも重いので、ニコンさんに特別お願いして「軽め」に調整してもらいましたが、それでもIFのものに比べると「力技」でのフォーカシングになります。
私が新聞社に入った頃、今回掲載されている初期型の望遠レンズを先輩達が「浅間山荘事件」で使ったと聞きました。極寒の日照時間の短い季節に、山荘で犯人が時折顔を出す尾根の面で各社が同様の600mmから800mmの望遠レンズを構えたそうです。撮影したフィルムとプリント残りは勉強のためじっくり見ました。トライXを2倍か4倍に増感現像した上、取材現場での速攻処理で粒子が荒く、その上にかなりのトリミングでプリントは粒子だらけで「とりあえず犯人の顔が写っている」という状態でした。それは、35mmフィルム1コマの10%程度の部分をトリミングしたもので、通常の写真愛好家では「あり得ない」例外的な処理ですね。そこまで過酷な条件でも人物の顔が判別できる程このレンズは高性能だったのですね。
後にいくつかのレンズユニットがED化されて色収差が改善されたそうですが、その頃にはスポーツ撮影のためにピントリングを軽くする要望の方が高く、IFの方が実用面で評価されました。
話は戻りますが、私が使った600mm(マウントユニット2型)は旧型レンズを新型レンズ(IF)に入れ替えている時期のものだったと記憶しています。
ちなみに、ボディはF2で、望遠用のDタイプ・スクリーンを装着しました。
投稿: しんじ | 2011年6月 4日 (土) 23時31分
浅間山荘事件は懐かしいとゆうより、私には生々しいです。
浅間山荘の位置。警官隊および報道の方のいた所からするとしんじさんの分析通りになると思います。
私もトライXを4倍に増感して人工光源下で相反則不規でISO800ぐらいになるところで、50ミリF1.4を生かしての撮影していたのを思い出します。当時の単体露出計はそこのところを補正してくれていたので、いまのデジ露出計では補正していますが。
この後、操作が進むにつれ総括の名の元に殺されたメンバーの中に従兄弟たちの同級生もおりましたし、連合赤軍に合同しなかった先輩もおり、公安(前身は特高)に追われることのすごさを知っているからです。
1枚の写真の向こうには色々な人たちのドラマがあることを知った事件でもありました。
しんじさんの先輩でこの事件のとき、使えた最高の機材でありながら、制約だらけでもありながら、撮影をした努力と工夫と自分の持つ技術の総てとそれ以上の工夫をしたことが伝わってきます。
投稿: ガタピシ | 2011年6月 5日 (日) 09時24分
ガタピシさん、悲惨な事件の例でこのレンズを語ってしまいましたが、とにかくユニット付きのこの望遠シリーズは金属のかたまりで重くて機動性に欠きました。当時は現在のような軽快な動きの雲台、三脚の選択肢もなく、ブレが何より心配でした。ですので、撮影位置を決めたら三脚を立て、なお三脚に重りを足したりしてひっくり返らないようにします。現在のレンズのように、三脚ごとかついで移動するのは困難でした。
ただ、ボディ側のフォーカシングユニットは共通なので、前玉だけ揃えれば他の焦点距離に変身します。このマウント部分を切り落として改造、ペンタの6X7用に作り替えてくれる業者もありました。野鳥撮影でペンタ用にユニットを改造したカメラマンがいました。
投稿: しんじ | 2011年6月 6日 (月) 01時45分
フォーカッシングユニット併用のニッコール超望遠レンズは、レンズユニットを交換するというやり方の他にゼンザブロニカ用のフォーカッシングユニットに交換して35mm判と6×6判でレンズユニットを共有するという手もありましたね。
レンズユニットの600mm F5.6、800mm F8、1200mm F11は、1974年に多層膜化されてCタイプとなった翌年の1975年にはEDレンズ使用のタイプとなりましたが、更にその翌年の1977年にはIF方式となったAi EDの400mm F3.5、600mm F5.6が登場し、1979年には同様に800mm F8と1200mm F11が加わっています。
野外などで超望遠レンズを使う人を見かける頻度が上がったのは、これらのニコンのIF方式のEDレンズやキヤノンのRF(リヤフォーカス)式の白レンズなどが登場してからでした。
私が最初にIF方式の超望遠レンズを触った時に常用レンズとほぼ同じ直径のフォーカスリング、そして指一本でも楽に回せるその感触に驚いたものです。
その時に長玉を使うなら絶対にIF/RF方式のレンズを入手すべしと思いました。
投稿: MARK12 | 2011年6月 6日 (月) 20時41分
いまは三脚の選択肢もありますが、選択肢のなかったとき、プロが三脚の重さを増すために使うアクセサリーもありました。
写真学校に行っていたオジが行っていたこともあり、スリックのプロも使った三脚を使っていましたが、フォーカシングユニットを使う超望遠ではもし使うことができたなら、ヒックリかえらないようにする工夫のため、自分で三脚の重さを増やすためのものを自作しなければならないこと。
撮影ポイントの移動のときなどは、オリンピックなどの競技ならまだよいですが、浅間山荘事件のような現場では、重機関銃の移動ではありませんが、迅速なポイント移動には班単位の人数が欲しかったでしょうね。先輩カメラマンは。しかも被写体は散弾銃を持っていて、殉職された警官もいたのですから。
私は3Kで在庫の管理や、資材の搬入をしていたので、この機材を見るとカメラマンの苦労がよく分かります。
また焦点距離が長くなれば、ブレ対策は困難を極めたことは容易に想像がつきます。
しかもカメラとこのレンズを支える三脚に不安があるとなれば、なおさらだったように思います。
投稿: ガタピシ | 2011年6月 7日 (火) 07時26分
●みなさんのコメント興味深く読ませていただきました。浅間山荘での報道現場は光量が限られ、逃せない瞬間を狙いながらカメラブレを起こさず犯人や警官隊を狙いながらシャッターを押すというのは正直想像出来ません。トライXの4倍増感と見ますと明るいと感じますが、開放F値の低さを考えるとシビアな条件が緩和されるにはほど遠そうです。現場での現像というのも驚きです。ニコンのフィルム電送装置の登場はずっと後のことでしょうから、ダークバックやアルミタンク、D76現像液の粉、紙焼き用の引伸器なども持参されていたのでしょうか?
●もう一つ興味深かったのは、フォーカシングユニットを改造してペンタ6×7に装着するということです。レンズ自体のイメージサークルを大きくとって設計されていたのでしょうか。初代サンニッパもブロニカ中判カメラへの流用を考えた大きなイメージサークルを有すると伺いましたが、同じ考え方なのでしょうね。深いですね。
投稿: ふみとパパ | 2011年6月10日 (金) 00時26分
浅間山荘のような事件では、カメラ記者と同時に伝送技術者も同行しました。暗室、伝送機能を備えた特殊車も軽井沢まで出動しましたが、事件が予想以上に長引き、現場の気温も極めて低いため、山荘近くの別の企業の寮と軽井沢の旅館を確保して取材基地を構えました。撮影したフィルムの現像はまず近くの寮で行い(手現像)、フィルムはまだ乾かないうちに引き伸ばし機で紙焼き(プリント)します。その紙焼きを白黒電送機にかけて各本社に送ります。最速で撮影後約1時間以内に本社に写真を送ります。最優先でないフィルムはすぐ現像しないか、軽井沢の本部に車で運んで処理または連絡員が本社に運びます。
朝刊、夕刊、地元版の原稿締め切り時間を勘案して、撮影フィルムの内容を選別して現像していきます。出張用の現像キットは、粉末現像液など市販のものです。普段から制限時間内に現像、引き伸ばしする訓練をさせられました。
紙焼きの伝送機は、電話回線につないで、ドラムに巻いた紙焼きを5分くらいかけて送る機械です。紙焼きサイズが大きいと伝送に時間がかかるので、カビネサイズを目安にします。後にニコンのNTシリーズ電送機が出るまでは、警察などもこの種の電送機で写真画像をやりとりしていました。
投稿: しんじ | 2011年6月11日 (土) 23時08分
この紙焼きの電送機は送るときにピーッって音がするので、ベトナム戦争でアメリカ軍の敗勢が強くなるとこの音がすると、国際電話の回線を切られるので、写真を電送する技術者はお互い送られたかどうかの確認のこの音がしないように写真を電送したとゆう話を思い出します。
この戦争は報道に関してはほぼ自由に取材できた唯一の戦争でしたが。
でもまあこれなんかかわいいものです。
中国で働いていた友人にメールで中国情勢どうなの、って内容になると、メールが繋がらくなります。だから友人は複数のメアド使っていました。
600ミリにしても、800ミリにしても、300ミリを使った時の経験からすると、35ミリのネガの10%のトリミングしかなかったでしょうね。
ベトナム戦争の転機となったテト攻勢のとき、フエの激戦を撮った沢田カメラマンの写真とを対比してみると、つくづく思います。
手榴弾を北ベトナム軍陣地に投げる瞬間の兵士を至近距離から援護している海兵隊員の側から撮っていますが、これなど北ベトナム兵は写ってはいませんが、この瞬間停戦となったとするならば、お互いの顔もよく見えたことでしょう。
当時、新聞などに出た犯人の写真をこの方法で撮らなければ、カメラマンが散弾銃で撃たれて殉職者が多数出たと思います。
投稿: ガタピシ | 2011年6月13日 (月) 08時10分
>この紙焼きの電送機は送るときにピーッって音がするので、・・・
>・・・写真を電送する技術者はお互い送られたかどうかの確認のこの音がしないように写真を電送した
ちょっと分かり難い文章なのですが、
この「ピーッって音」というのが写真電送時の信号音(変調音)のこととすれば、この変調トーン(ピッコロ、ピッコロなどとも表される)は、止めるわけにはいきませんね。
印画紙を使う写真電送機でキャビネ判を電話回線で1枚送るのに5~6分かかるわけですから、信号音をモニターされていれば目立つでしょうね。
もしかしたら写真電送の前後で交わされる確認用の会話の内容あるいは、(もしあるのなら)固有の識別信号とかに気を付けようということではなかったのでしょうか?
ちなみに当時の日本でも写真電送時の長時間の変な信号音に疑問をもった電話局の人が、確認のために「もしもし、もしもし」などと回線に声を入れたりしないように祈ったそうです。
ノイズが入ると白黒写真の場合は白や黒の線が出てしまいますので、最初からやり直しになったりしたそうです。
投稿: MARK12 | 2011年6月14日 (火) 21時53分
私は写真はあくまで趣味ですので想像するしかありませんが、当時の資料には名人芸とありますから、変調音をカットする改造を現地でした可能性もあったかもしれません。
送る側も受ける側も当局側に察知されないようにするのに、大変な緊張を必要としたことがベトナム戦争が終結した後、出た出版物に書かれていたように思います。
資料の喪失は3.11のような自然災害だけではなく、金融機関による貸しはがしもあります。それも犯罪行為であったり、大口融資先をなんとかするためだとか、不条理なものが多いです。
投稿: ガタピシ | 2011年6月16日 (木) 09時45分
本日、銀座のニコンハウスに寄ったら、フォーカシングユニット2型付きの600ミリが1本ありました。7万円弱でした。
投稿: しんじ | 2011年6月18日 (土) 19時58分