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(光学回顧録より) 以前紹介しました藤井光蔵の懐旧談/懐旧談続編の資料です。
飛行船ツェッペリン号がロンドンの空に鮮やかに照らしだされています。 初めてロンドンに現れた時、高射砲による砲撃の様子が無かったのは、照準具が整っていなかった為との噂が流れていたと書かれています。
2011年2月 8日 (火) Nikon etc. | 固定リンク Tweet
1915年5月31日に初のロンドン空襲を行ったツェッペリン飛行船(Luftschiff Zeppelin)は、製造番号で言うところのLZ38(1915年4月3日初飛行)ですね。 (英国自体への初の爆撃は1915年1月20日に出撃したLZ27のようですが) 藤井光蔵氏が出した葉書に1915年12月5日の日付のスタンプがありますので、ロンドン空襲が始まった同じ年のものですね。 ツェッペリン飛行船による英国空襲は1918年8月6日まで行われたようです。
第一次世界大戦後に建造された民間用のLZ127 グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯号)は、世界一周時に初の太平洋横断無着陸飛行を行う前に日本にも立ち寄りました(霞ヶ浦航空隊基地に1929年8月19日に到着し、23日に出発)。 このLZ127は、最もツェッペリン飛行船が輝いていた頃の有名な飛行船ですね。
投稿: MARK12 | 2011年2月 8日 (火) 20時42分
照準具が整っていなかったのうわさは、おもしろいですね。
高射砲部隊に配備されていたとしても、照準具の取り扱いに習熟していなければ、意味はありませんし、空の戦いにしても第一次世界大戦からで、空中戦だけでなく、高射砲による戦いも手探りで行われていたのではないかと思います。空の戦いの初期は。
整理していないので分かりませんが、この時代のパイロットの教育の映像をDVDに録画してありますが、初期の頃は実戦機の複座の練習機がなく、初めから単独での操縦訓練となるため、教育中に墜落してゆく映像がありました。
またパイロットの消耗もすさまじく第一次世界大戦の撃墜王でレッド・バロンと呼ばれたフォン・リヒトフォーヘンの戦いを描いた映画「レッド・バロン」の戦死間近の頃、配備されて来たパイロットの飛行時間が長い者で10時間と申告している場面がありました。
第二次大戦の時、高射砲と対戦車砲に用いられた、ラインメタル社の野戦での高射砲として使うときの照準具一式を雑誌で見たことがありますが、照準具とその取扱いにはかなりの習熟度が必要なように思いました。
投稿: ガタピシ | 2011年2月 9日 (水) 11時22分
第一次世界大戦におけるドイツのツェッペリン飛行船や双発爆撃機ゴータ(Gotha)によるロンドンやパリに対する攻撃が、都市攻撃や空襲の始まりとも言えますから当時は対空防御自体が未だ黎明期と言う感じだったと思います。 ドイツやフランスに比べても対空防御が遅れていたイギリスは、第一次世界大戦勃発時点では高射砲を1門も保有していなかったようで、1914年以降に中口径砲に高角砲架等を付加して数種類の高射砲を開発したようです。
1915年のツェッペリン飛行船によるロンドン初空襲時に一体何門の高射砲がロンドン地区に用意できていたかですね。 まともな射撃どころか発砲すら満足に出来なかったとしても不思議ではありません。照準器の用意の有無以前の問題だったと思います。 高射砲や対空機関砲(軽対空砲)がある程度揃い、それなりに効果(特に戦闘機が活躍できない夜間)が出てくるのは、もう少し後の時期になりますね。
投稿: MARK12 | 2011年2月11日 (金) 00時07分
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コメント
1915年5月31日に初のロンドン空襲を行ったツェッペリン飛行船(Luftschiff Zeppelin)は、製造番号で言うところのLZ38(1915年4月3日初飛行)ですね。
(英国自体への初の爆撃は1915年1月20日に出撃したLZ27のようですが)
藤井光蔵氏が出した葉書に1915年12月5日の日付のスタンプがありますので、ロンドン空襲が始まった同じ年のものですね。
ツェッペリン飛行船による英国空襲は1918年8月6日まで行われたようです。
第一次世界大戦後に建造された民間用のLZ127 グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯号)は、世界一周時に初の太平洋横断無着陸飛行を行う前に日本にも立ち寄りました(霞ヶ浦航空隊基地に1929年8月19日に到着し、23日に出発)。
このLZ127は、最もツェッペリン飛行船が輝いていた頃の有名な飛行船ですね。
投稿: MARK12 | 2011年2月 8日 (火) 20時42分
照準具が整っていなかったのうわさは、おもしろいですね。
高射砲部隊に配備されていたとしても、照準具の取り扱いに習熟していなければ、意味はありませんし、空の戦いにしても第一次世界大戦からで、空中戦だけでなく、高射砲による戦いも手探りで行われていたのではないかと思います。空の戦いの初期は。
整理していないので分かりませんが、この時代のパイロットの教育の映像をDVDに録画してありますが、初期の頃は実戦機の複座の練習機がなく、初めから単独での操縦訓練となるため、教育中に墜落してゆく映像がありました。
またパイロットの消耗もすさまじく第一次世界大戦の撃墜王でレッド・バロンと呼ばれたフォン・リヒトフォーヘンの戦いを描いた映画「レッド・バロン」の戦死間近の頃、配備されて来たパイロットの飛行時間が長い者で10時間と申告している場面がありました。
第二次大戦の時、高射砲と対戦車砲に用いられた、ラインメタル社の野戦での高射砲として使うときの照準具一式を雑誌で見たことがありますが、照準具とその取扱いにはかなりの習熟度が必要なように思いました。
投稿: ガタピシ | 2011年2月 9日 (水) 11時22分
第一次世界大戦におけるドイツのツェッペリン飛行船や双発爆撃機ゴータ(Gotha)によるロンドンやパリに対する攻撃が、都市攻撃や空襲の始まりとも言えますから当時は対空防御自体が未だ黎明期と言う感じだったと思います。
ドイツやフランスに比べても対空防御が遅れていたイギリスは、第一次世界大戦勃発時点では高射砲を1門も保有していなかったようで、1914年以降に中口径砲に高角砲架等を付加して数種類の高射砲を開発したようです。
1915年のツェッペリン飛行船によるロンドン初空襲時に一体何門の高射砲がロンドン地区に用意できていたかですね。
まともな射撃どころか発砲すら満足に出来なかったとしても不思議ではありません。照準器の用意の有無以前の問題だったと思います。
高射砲や対空機関砲(軽対空砲)がある程度揃い、それなりに効果(特に戦闘機が活躍できない夜間)が出てくるのは、もう少し後の時期になりますね。
投稿: MARK12 | 2011年2月11日 (金) 00時07分