ニコンF2とAiレンズ
1977年過ぎのAi化後のニッコールレンズ用ニコンセールスマニュアル英語版の中にあった画像です。
机かサイドテーブルかわかりませんが、そこにカメラ機材が置かれていてなかなか良い雰囲気が出ています。
これらレンズを見ますとF2フォトミックAには105mmF2.5、その他はズーム80~200mmF4.5(新型)とED300mmF4.5、180mmF2.8、18mmF4、24mmF2.8、50mmF1.4です。これでマイクロ55mmF3.5があれば通常の撮影にあまり困ることはないと思えるレンズ構成ですね。
これが、現在なら一般的なデジイチのダブルズームキットで事足りそうですが、少しグレードを上げて上のF2とのバランスを考えると、D700とAF-S NIKKOR 16-35mm f/4G ED VR、AF-S NIKKOR 28-300mm f/3.5-5.6G ED VR、AF-S Micro NIKKOR 60mm f/2.8G EDが良さそうですね。
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コメント
●いつも楽しく拝見しております。●F2は大好きなカメラなので、広告をご紹介いただく度に、口に含み味わうかの如く味わっております。●部屋の中の写真なのに18ミリレンズや24ミリレンズを見るだけで、深く透き通った藍色や紺色の空を背景にした風景写真が、180ミリレンズを見るだけで優しいボケ背景の写真が頭に浮かびます。
●ズームレンズも入っていますが、今と較べて単焦点レンズの存在感が大きかったですね。今ですとズームレンズ2本くらいで対応出来てしまうのですが、レンズを交換するところから来る「味」や「夢」を得るにはこの写真のセットがぴったりと感じました。
投稿: ふみとパパ | 2011年1月31日 (月) 10時39分
某国営放送で、地方に移住する30代の人の特集をしていましたが、地方に移住してそこの地域の名産物を全国に紹介すめHPを作成して生活している人が使っていたのが、ニコンF2フォトミックかAのようでした。
いま若い人がフィルムにこだわる人が出ているようです。
デジタルで撮影して加工してアートとするカメラマンがいる半面、独特の構図で知られるカメラマンの人が写真展で見に来た若い人に「これ合成でしょう」に、ショックを受けたそうです。
私がフィルムにこだわるのは、フィルムは現場に自分の身を置いて撮ったリアルにこだわっているのかもしれません。
現在、年末に放送されている「坂の上の雲」で日露戦争開戦前の舞鶴基地の場面を見ていると現在の舞鶴基地に明治時代のCGで描き出された戦艦が停泊しているリアルさを見ていると、リアルとは何かとゆう現実を突きつけられた思いもしました。
この画像を見ていると、確実にリアルしか撮れなかった時代を感じます。
フィルムのオリジナルは加工しようがないものの、写真の加工によって謀略戦を繰り広げた時代もありましたが、オリジナルのフィルムの映像の加工は出来ないので、バーチャルな現実を解き明かすことが出来ることをフィルムは語っているように私は思えるのですが。
投稿: ガタピシ | 2011年1月31日 (月) 13時30分
F2とFは手に出来たらと、いつも思っていたカメラです。
ふみとパパさんではありませんが、ズームよりも単焦点レンズの方が多かったですね。
この時代、単焦点のレンズを選ぶとき、自分はどのレンズでどんな写真を撮りたいかを考えていたように思います。
ふみとパパさんは撮り鉄のようなので、手に入れてみるとおもしろい約30年前に終刊になった鉄道趣味誌を紹介します。
キネマ旬報社から出ていた「蒸気機関車」
季刊時代から隔月時代のものがとても良いです。
真幸のスイッチバックの駅にバックで侵入してくる重装備のD51の写真はすごいですよ。
サンニッパで撮ったような迫力のある写真ですが、私は50ミリで撮影しているような気がしますが。
この雑誌はアマチュアの人が撮った写真と文章で構成されている、とてもハイレベルな雑誌です。
終わりの頃、作品の掲載が多かった人が執筆した「カメラと私」のコーナーはカメラ好きならば、一読の価値があります。
投稿: ガタピシ | 2011年1月31日 (月) 22時30分
●ガタピシさん、ご教示ありがとうございます。小生アンテナが低いため、キネマ旬報社の「蒸気機関車」を読んだことがないので、チャンスあれば是非とも読みたく思います。
●真幸(まさき)駅=山岳路線で有名なJR九州肥薩線で大畑駅のスイッチバックと並ぶ駅ですね。蒸気機関車の時代を存じ上げないのですが、光線の具合を考え、予め置きピンして更には低速路線では煤煙が機関車の前に被らぬよう風向も読んでと、撮影者自身も撮影前にロケーションも相当考えた上で撮影に挑んでいたのではと思います。運転本数も少ないので、思うようなショットが狙えるチャンスは1日2~3本とかでしょう。それだけにアマチュアであっても技量を磨いていたと思います。ズームレンズを持っていても「この焦点距離で撮る」とカチッと決める方が多かったのではと思います。
投稿: ふみとパパ | 2011年2月 1日 (火) 10時41分
ふみとパパさんへ。
この時代はズームレンズを使う人は少なく、単焦点レンズの方が高性能だったので、ズーミングによる特殊効果による写真をイメージしていました。
35ミリはモノクロ用で、カラーは6×6以上の中判原稿しか受け付けてくれませんでした。
35ミリでカラー原稿OKになったのはニコンF2登場の年で、この年はキヤノンが対ニコン戦用のF-1を先に発売しており、廣田尚敬氏は35ミリでカラー原稿が大丈夫になったとき、こちらを使用するようになります。
F2も使っているのですが。
カラー原稿用のフィルムはコダクローム25(KM)登場前の同じ感度のK-Ⅱに限られ、鉄道写真のプロはISO50に増感にして使っていました。
いまは笑い話になりそうですが、この雑誌の事実上の編集長だった方は姥捨でFに300ミリを付けて使ったのはいいものの、持てあましていたとか。
RMの編集長は「蒸気機関車」の終わりの頃、アルバイトで編集にたずさわっていたこともあり、山陽本線でC62が活躍していた時代の、豪雨の中での遅延運転中のC62の乗務員の回想記事や38豪雪の信越本線でD50で除雪列車の運転が急遽、旅客列車を運転した機関士の回想、北陸本線で急行「日本海」を牽引した機関士と機関助士たち(この頃、まだ北陸本線もタブレット閉塞で運転しており、運転速度が速い急行「日本海」はタマ取りと呼ばれたタブレットを専門に取り扱う助士とカマ焚き専門の助士とが乗務していた)との壮絶な雪との戦いが回想されており、ここでアルバイトをしていた名取編集長が現在RMに連載中の「SL甲組の運用」に結実させてゆく過程を見るような思いも感じますよ。
ニコンFとニッコールとがどんな存在であったことも感じることができると思います。
この広告の映像を見ていると、ニコンのフラッグシップ機を使える者の誇りを強く感じます。
この広告の映像を見ると、いま若い人たちにも強烈な印象を与えている、故・一之瀬泰造氏の「地雷を踏んだらさようなら」も連想します。
ベトナム戦争で殉職した南北のカメラマンたちの写真集「レクイエム」
北側のカメラマンたちがニコンを手にしていたらどんな写真を撮ったかなとも思います。
投稿: ガタピシ | 2011年2月 1日 (火) 19時21分
肥薩線の大畑(おこば)駅(日本唯一のループ線とスイッチバック線併設)、矢岳越えで知られた矢岳(やたけ)駅、真幸(まさき)駅(スイッチバック線)等の紹介や昭和40年代の矢岳越えのSL写真などは、ネット上にたくさん有りますね。
やはり、それだけ有名と言うか愛されているのでしょう。
下記は、ほんの一例です。
【肥薩線の駅の歴史や近況】
<写真旅行記>
「大畑駅~肥薩線の駅 - 熊本県人吉市」
http://washimo-web.jp/Trip/Okoba/okoba.htm
「肥薩線 矢岳駅~真幸駅 - 熊本県・宮崎県」
http://washimo-web.jp/Trip/YatakeMasaki/yatakemasaki.htm
【D51等SL写真】
「肥薩線(真幸~矢岳)」
http://members.jcom.home.ne.jp/yuuichi3/D51/D51-005.html
「矢岳越えのD51」
http://my.reset.jp/~kuric622/gen/gen01/okoba/okoba.html
投稿: MARK12 | 2011年2月 1日 (火) 20時16分
間違いがありました。
「SL甲組の運用」ではなく、「SL甲組の肖像」でした。
現在、矢岳駅前にはDD51とここで使用されたD51が保存されています。
DD51の前は8620だったのですが、これは「SL阿蘇BOY」号で復活しましたが、阿蘇のカルデラ越えのための大規模な三段スイッチバックがあるので大丈夫かなと思っていたら、やはりヘタリました。
現在、修復も完了して肥薩線の川線と通称されていた区間に運転が代わりましたが、こちらは元々の古巣です。
その後、C55、そしてC57へと機種が代わりますが。
リベットのテンダーはリベットで組み立てる技術が絶えているため、使えなかったとのこと。
リベットをコークスで熱して、止めるところに持って行き、リベトで結合出来る人がいないこと(サッパ・ボイラーとゆう会社には居ると思いますが)。リベットを止めるためのエアー・ハンマーがないからだと思います。
現在、鉄道車両、船舶をリベットを使って組み立てることは出来ないでしょうね。
8620とD51の手入れをされていた方も90代の高齢になっています。
8620を引き取りに来た時、JR九州の職員が驚くほど車軸も滑らかで簡単に動かせ、手の届くところはピカピカに手入れがされています。
手入れを市から委託されて手入れをされていた方は、北九州鉄道管理局の工場で、蒸気機関車の修善、検査、オーバーホールを担当していて、退職後、故郷のここに戻ってこられています。
自分の使っているカメラをここまで手入れしているのかなと、思ってしまうほどの手入れです。
投稿: ガタピシ | 2011年2月 2日 (水) 15時21分
以前35ミリF2.8の記事を読んだ時、手持ちのAi35ミリF2.8のシリアルナンバーから違和感を感じたので、ヤ●オフのレンズの出品から観察を進めているのですが、Ai35ミリF2.8は新旧のタイプがあることは知られていると思いますが、ニューニッコールのレンズ設計を引き継いだ旧型の出品が少ないのです。
ニューニッコールの35ミリF2.8、Ai-Sに引き継がれる新型のシリアルナバーの観察からすると、もっと数があってもいいはずなのですが、数が少ないのです。
人気があるのかどうかは分かりませんが、Ai35ミリF2.8の新旧の生産期間はそんなに変わりはないのですが、旧型のものは85万代から始まって86万代までしかシリアルナンバーの確認が出来ていません。
新型は35万代から始まって45万代までのシリアルナンバーを確認しています。
ちょっとミステリアスな感じがします、旧型からは。
それとも海外への出荷の方が多かったのでしょうか?
投稿: ガタピシ | 2011年2月 3日 (木) 22時20分
ガタピシさん、私の資料では35ミリF2.8は初代がセンチ表示の5群7枚構成(92万番~)、その後ミリ表示になり6群7枚構成(10万番~)へ、ニューニッコールには6群6枚構成(35万番~)へ、それがそのままAI化(77万番~)され、それの改良版が5郡5枚構成になり、Ai-S化(52万番~)まで引き継がれたようです。
投稿: MARU0 | 2011年2月 3日 (木) 22時49分
私もヤ●オフがなければこのような観察はできなかったと思います。
私の観察ではオートニッコールがミリ表示になった後。Nippon Kogakuの刻印から、Nikonに代わったものが30万代になっています。
私のオートニッコール35ミリF2.8はNikonの刻印で35万代のものです。
これは皆様の情報を提供いただければとゆう、一つの提言と受け取っていただければ幸いです。
現在●クオフで確認したニューニッコールの最若番は780024で、最後期のものは826125を確認しています。
ニューニッコールのレンズ構成でAiレンズとして登場したものは最若番で857462で、最後期のシリアルナンバーは私が手に入れたものでそのときには、爪が外されていたもので、869163です。
爪はいまはなくなったニコンの横浜の営業所で付けてもらいました。F2フォトミックを使っていたので。
Ai-Sに引き継がれるレンズ設計のものは、35万代から始まって45万代までを確認しています。
Ai-Sは確かに52万代から始まっています。
投稿: ガタピシ | 2011年2月 4日 (金) 17時03分
ニューニッコールの35ミリF2.8のさらに最若番を確認しました。777789です。
投稿: ガタピシ | 2011年2月19日 (土) 20時51分