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ニューヨーク五番街のニコン ニコンの軌跡9

ニコンの軌跡9回目はニコンがアメリカへ進出した時の事が紹介されています。
9444s(光友444号より)
これには、1953年当時ニューヨークに現地法人をおいていた日本企業は日本光学のみとあります。そんな日本光学も35ミリ判レンジファインダーカメラを完成してから僅か数年の事で、35ミリ判カメラでは先輩格のキヤノンがニューヨークに現地法人が無かった事はむしろ意外と感じました。(キヤノンも1955年10月には同じニューヨーク五番街に支店を設けました。)

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コメント

これはニコンの運の良さとしか言いようがないと思います。

日本人初のライフ特約カメラマンになった三木 淳氏による、ライフの花形カメラマン、ダンカン氏をニッコールで撮ったこと。

そしてこの時、朝鮮戦争(朝鮮の人はこの戦争をユギオとゆっているそうです。ハングルが分かればと思うことがあります)勃発により、急遽戦場に赴いて撮影されたネガはニューヨークのライフ社の暗室で現像され、そのネガを見た暗室マンが「すごい! シャープだ。4×5で撮ったみたいだ」とゆうエピソードと、朝鮮戦争の激化にともない増派されたカメラマン、マイダンス氏のコンタックスのヒモが戦場への出発を明日に控えた日に切れたこともあったと思います。

当時のコンタックスはライカよりもシャッター速度が速かったものの、あの金属シャッターはタコ糸で繋がれていたとのことですから、ライカと比べるとシャッターの耐久性は低かったはずです。

そこで急遽、ニコンSを持ってマイナス30°を越える厳冬期の戦場に向かうのですが、この時、作動したのはニコンのみ。
一説にはニコンSは大和級に装備された15メートル測距儀の技術を転用したともいわれていますから、かつて海軍から要求された過酷な仕様が生きたことになります。

これが運とゆうものなのでしょうか。

投稿: ガタピシ | 2010年12月14日 (火) 15時18分

「ニューヨーク5番街のニコン」の紹介記事に掲載されているNikon Optical Co.事務所が入ったビルの写真の中央最上階の窓には、Nikon と書かれた文字が読めますね。

日本光学工業が1953年当時にニューヨークに日本企業としては初めての現地法人を開設できたのは、運の良さもありますが、時期的なタイミングの良さと会社としての実力もあるでしょうね。
少し前の敗戦国で経済力は未だ弱体、回復途上の当時の日本は、製品が優秀なだけでは、簡単には米国や世界に認めてもらえなかったものと思います。

精機光学工業(株)からキヤノンカメラ(株)への社名変更(1947年9月)後の1950年(昭和25年)8月にキャノンカメラの初代社長の御手洗 毅(みたらい たけし)氏(現キヤノン会長の御手洗 富士夫氏の叔父にあたる)は、視察を兼ねて渡米し、持参のカメラを携えてベル・アンド・ハウエル(Bell and Howell)社を訪問してキヤノンカメラのアメリカでの販売について打診しましたが、
調べた現物カメラの優秀性は認めつつも占領下の日本製品であること、本社工場が火災に弱い木造建であることなどを理由に販売提供の話を断られています。
(今で言うところのOEM製造なら可だったようですが、これは御手洗社長が断ったようです)
キヤノンは、1951年6月に大田区下丸子にあった旧富士航空計器(株)の工場を購入し、改装工事後に本社部門や各工場を整理統合して漸次移転を行い、会社としての体制強化にも努めました。

当時の日本の光学機器メーカーで、コンクリート建てなどの不燃性の工場を既に所有していたのは、日本光学工業など、元々光学兵器などを作っていた一部のメーカーに限られていたものと思います。
アイレス写真機製作所のように木造工場が全焼してしまったら、生産が停止するだけでなく会社倒産にもなりかねません。
優秀な製品製造だけでなく、供給の安定性や信頼性の面からも不燃性工場の確保と近代的製造設備導入は、大手メーカーにとっては必須事項になっていったと云えるでしょう。


ハングル文字は、私も全く分かりません。むしろロシア語のキリル文字の方がまだマシです。漢字だと多少は想像がつくのですが。
日本で云うところの朝鮮戦争は、韓国では韓国戦争(ハングク・チョンジェン)と呼ばれ、開戦日(1950年6月25日)にちなんで、六二五事変(ユギオ・サビョン)とも呼ばれているようです。
通称は、6・25(ユギオ)でしょうか。

投稿: MARK12 | 2010年12月15日 (水) 20時13分

MARK12さん、「ユギオ」の解説ありがとうございました。

日本光学は親方帝国海軍で、当時の潜水艦の潜望鏡や各戦闘艦が搭載していた測距儀、大形双眼鏡、高角度の双眼鏡より得られるデーターと射撃、雷撃などの攻撃を行うための各種データーを機械的に入力してデーターを出す方位盤(機械式コンピューターですね)とを組み合わせた高度な光学兵器を製造していたことからもコンクリートの工場を持たなくてはならなかったように思われます。
木造の工場では火事が起きただけで、巨額の国家予算を投じて製造している光学兵器が消失してしまうのでは、国家の安全にかかわったことでしょう。

方位盤は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に実用化、装備されたものなので、当時としてはものすごいスピードで各国海軍に普及したことになりますね。

この時期の日本光学は帝国海軍の消滅により、従業員の9割をリストラしたこともあり、経営的には安定していたとは考え難く、当時、日本の復興のために部署的には通産省でしょうか、世界各国のカメラの情報を集め日本の国内メーカーに資料を提供して戦後復興の産業育成を図っていたこともあり、日本光学には外貨を必要としていた国のかなりのバックアップがあったのではないかと思います。

キヤノンの体制強化にも同じ理由で日本の政府の強力なバックアップがあったのではないかと思われます。

投稿: ガタピシ | 2010年12月16日 (木) 18時42分

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