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今後、産業空洞化により、ニコンの工場がここから無くなってしまうとしたら、「光学通り」という名称も無くなってしまうのでしょうか。 それとも、文末の“毎日たくさんのニコンマンが足跡を残す「光学通り」、その一歩一歩が新しい歴史を刻むための歩みであることは、今も昔も変わりありません。”のように変わらないのでしょうか。
2010年12月 6日 (月) Nikon etc. | 固定リンク Tweet
光学関係の付加価値は高いようです。
現在、日本ほど光学ガラスを生産している国はないのでいないでしょうか。 日本の光学メーカーが経営危機に陥った時、そのメーカーが外国資本に買収されないような動きが見え隠れします。
販売代理店の倒産で経営が行き詰まり、このままでは倒産とゆわれたマミヤなどは、日本の政財界が陰で、外国資本に渡らないように動いたとしか思えないものがあります。
この時、欧米の光学機メーカーを初めとして、ものすごい大資本がマミヤ獲得に動いたとゆう話です。
例外としては、アイレスカメラでしょうか。 アイレスは本社工場の火災で倒産していますが、アイレスの社長は朝鮮半島南部の出身者だったので、光学技術が欲しかった韓国政府が動き、倒産の後始末、大韓光学設立のために動き、アイレスカメラの社長は大韓光学の初代社長に就任したとゆう話を聞いたことがあります。
第一次世界大戦の時、世界の光学ガラスのほとんどを製造していたドイツと交戦した連合国はその入手に苦労したとありますから、それだけはないだろうと思っていますし、そうであって欲しいと思います。
ニコンで製造している光学機器は精密機器であるので、トラックの運転手時代、ニコンの製品を運ぶ、下請けの運送業者のトラックには製品を入れるトラックの箱の部分ニコンの会社の社紋が描かれていて、「エア・サス(エアー・サスペンションの略)車」と必ず書いてありました。
エア・サスは国鉄が特急用電車、急行用電車、特急用気動車用に開発したもので、開発時期からすると新幹線の車両にも採用するこも決まっていたことでしょう。
エア・サスペンションは新幹線の乗り心地で実感することが出来ます。 ショックの吸収性も高く、同じ重量積載のトラックでも、高速道路の橋脚の接合部分の通過時、荷台の荷物をショックから守るため、通過時は減速しなくてはならないのですが、エア・サス車はほとんど減速しないで走行することができると、仲の良かった同僚から聞いたのを思い出します。
ニコンで製造している製品はどれもが、エア・サス装備のトラックで運ばれてゆくので、残るだろうと私は確信しています。
投稿: ガタピシ | 2010年12月 6日 (月) 11時19分
ガタピシさんの今回のコメントは、なかなか良いですね。格調高い感じです。
アイレス写真機製作所の顛末の話は、特に興味深いものだったので、私も少し調べてみました。 前身のヤルー光学の創業者で、高田馬場にあった工場の全焼が契機で1960年(昭和35年)に倒産したアイレスの社長でもあった金谷氏は在日韓国人の方でしたが、韓国に招かれて大韓光学の社長になったのですね。 1949年(1947年との説もあり)に設立されたヤルー光学のヤルーは、創業者(金谷氏)の故郷の鴨緑江(おうりょうこう)の中国語(北京語)の読みヤール・ジャンから来ていることが分かりました。 鴨緑江は、現在の中国と北朝鮮の国境となっている川ですね。
大韓光学は、当時の朴正熙大統領の意向を汲んで三星グループの会長となるイ・ジョンリム氏が1967年に創業した韓国初の光学機器会社のようです。 大韓光学の製品としてのカメラは、マミヤから技術と部品を導入して、VERIX HQ等のレンズ交換式カメラを1970年代中期まで製造し、1976年には独自モデル(日独加の技術や部品は導入していますが)のKOBICA BC等を1980年代まで生産していたようです。 しかし、大韓光学はその頃に不渡りを出してしまい、カメラ生産も途絶えたとあります。
メガネなど韓国の光学関係の会社も安い中国製品に押されて消えていく会社が少なくないようです。 付加価値の高い製品を作っているメーカーは、韓国でも残っていますので、ガタピシさんが言われるように価格で勝負しない付加価値の高い製品の開発や製造が出来る間は、日本の精密機械や光学関係のメーカーも大丈夫でしょう。
投稿: MARK12 | 2010年12月 7日 (火) 20時27分
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この記事へのトラックバック一覧です: オン・ザ・光学通り 「ニコンの軌跡」7より:
久野 幹雄: ニコン―レンジファインダーニコンのすべて (★★★★★)
青山 祐介: 究極のニコンカメラ (★★★★★)
佐藤 治夫 /大下 孝一 : ニッコール千夜一夜物語―レンズ設計者の哲学と美学ニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
豊田 堅二著: ニコンファミリーの従姉妹たちニッコールクラブ会報に連載されていた記事に加筆して1冊にまとめたものです。 ニコンサイトでも閲覧可能 (★★★★★)
落合 泰之著: ニコンカメラレンジファインダーニコンを紹介。コレクターの方必携です。 (★★★★★)
コメント
光学関係の付加価値は高いようです。
現在、日本ほど光学ガラスを生産している国はないのでいないでしょうか。
日本の光学メーカーが経営危機に陥った時、そのメーカーが外国資本に買収されないような動きが見え隠れします。
販売代理店の倒産で経営が行き詰まり、このままでは倒産とゆわれたマミヤなどは、日本の政財界が陰で、外国資本に渡らないように動いたとしか思えないものがあります。
この時、欧米の光学機メーカーを初めとして、ものすごい大資本がマミヤ獲得に動いたとゆう話です。
例外としては、アイレスカメラでしょうか。
アイレスは本社工場の火災で倒産していますが、アイレスの社長は朝鮮半島南部の出身者だったので、光学技術が欲しかった韓国政府が動き、倒産の後始末、大韓光学設立のために動き、アイレスカメラの社長は大韓光学の初代社長に就任したとゆう話を聞いたことがあります。
第一次世界大戦の時、世界の光学ガラスのほとんどを製造していたドイツと交戦した連合国はその入手に苦労したとありますから、それだけはないだろうと思っていますし、そうであって欲しいと思います。
ニコンで製造している光学機器は精密機器であるので、トラックの運転手時代、ニコンの製品を運ぶ、下請けの運送業者のトラックには製品を入れるトラックの箱の部分ニコンの会社の社紋が描かれていて、「エア・サス(エアー・サスペンションの略)車」と必ず書いてありました。
エア・サスは国鉄が特急用電車、急行用電車、特急用気動車用に開発したもので、開発時期からすると新幹線の車両にも採用するこも決まっていたことでしょう。
エア・サスペンションは新幹線の乗り心地で実感することが出来ます。
ショックの吸収性も高く、同じ重量積載のトラックでも、高速道路の橋脚の接合部分の通過時、荷台の荷物をショックから守るため、通過時は減速しなくてはならないのですが、エア・サス車はほとんど減速しないで走行することができると、仲の良かった同僚から聞いたのを思い出します。
ニコンで製造している製品はどれもが、エア・サス装備のトラックで運ばれてゆくので、残るだろうと私は確信しています。
投稿: ガタピシ | 2010年12月 6日 (月) 11時19分
ガタピシさんの今回のコメントは、なかなか良いですね。格調高い感じです。
アイレス写真機製作所の顛末の話は、特に興味深いものだったので、私も少し調べてみました。
前身のヤルー光学の創業者で、高田馬場にあった工場の全焼が契機で1960年(昭和35年)に倒産したアイレスの社長でもあった金谷氏は在日韓国人の方でしたが、韓国に招かれて大韓光学の社長になったのですね。
1949年(1947年との説もあり)に設立されたヤルー光学のヤルーは、創業者(金谷氏)の故郷の鴨緑江(おうりょうこう)の中国語(北京語)の読みヤール・ジャンから来ていることが分かりました。
鴨緑江は、現在の中国と北朝鮮の国境となっている川ですね。
大韓光学は、当時の朴正熙大統領の意向を汲んで三星グループの会長となるイ・ジョンリム氏が1967年に創業した韓国初の光学機器会社のようです。
大韓光学の製品としてのカメラは、マミヤから技術と部品を導入して、VERIX HQ等のレンズ交換式カメラを1970年代中期まで製造し、1976年には独自モデル(日独加の技術や部品は導入していますが)のKOBICA BC等を1980年代まで生産していたようです。
しかし、大韓光学はその頃に不渡りを出してしまい、カメラ生産も途絶えたとあります。
メガネなど韓国の光学関係の会社も安い中国製品に押されて消えていく会社が少なくないようです。
付加価値の高い製品を作っているメーカーは、韓国でも残っていますので、ガタピシさんが言われるように価格で勝負しない付加価値の高い製品の開発や製造が出来る間は、日本の精密機械や光学関係のメーカーも大丈夫でしょう。
投稿: MARK12 | 2010年12月 7日 (火) 20時27分