マツダ フラッシュバルブ広告1954年
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コメント
●いつも楽しく拝見しております。 ●フラッシュバルブは叔父が昔使っていたくらいの記憶しかありませんが、そんなに高価なモノとは知りませんでした。先日ご紹介いただいた現像代とともに、写真というのは本当にお金のかかるものと改めて感じました。
●僅か一瞬ですが、科学映像館「光の技術」(1961年、企画:松下電器、制作:東京シネマ、http://www.kagakueizo.org/2010/06/post-301.html)に、写真電球の製造の様子がありました。
投稿: ふみとパパ | 2010年12月 8日 (水) 12時12分
M-11とF-12は当時、報道関係のスタンダード・カメラだったスピード・グラフィック、通称スピグラ用のフラッシュバルブでしょうか。
アマチュアには縁のないカメラですから。
この年に現在も使われているトライXが出ていますが、登場時はISO200。
その前がダブルXで、ISO100。
フジがダブルXを追っかけてネオパンSSを発売していますが、コダックと比べるととゆうものの、当時の日本のアマチュアカメラマンにとってはありがたいプレゼントだったとのことです。
フィルムを使用する人でも、ネオパンSSが高感度フィルムとゆわれても、ピンとこないでしょうね。
この時代はカメラもフィルムも高価。
フラッシュバルブも高価で、昭和30年代のリコーの発光器がいまもありますが、見てみると余り使われた形跡はありません。
この発光器のおもしろいことは、フラッシュが発光するかどうかを確かめるための、通電確認用の電球が付いていることです。
ちなみに昭和20年代の35ミリは特殊カメラに属し、父が結核療養所で同じく入院していた若手プロカメラマンから写真をゼミ形式で習っていたとき、これ以上家族に迷惑をかけたくないからとイチバチで執刀してもらった医者がレオタックスを持ってきて、「これ写らないンだけど、どうしたらいいのかな」と聞きに来たとのこと。
この時代は6×4.5か6×6が主力だったわけですね。
投稿: ガタピシ | 2010年12月 8日 (水) 15時25分
●ガタピシさんこんばんわ。●M-11,F-12形のフラッシュバルブは見たことのない形状=口金が一般用電球のE26と同じでしょうか? 10年くらい前にNHK-BSで「ニュース映画で見る昔の日本」という毎晩流していた番組で、随分大きなカメラ(スピグラ)に負けず大きな反射傘を付けているのをよく見かけましたが・・・●ニコンS型用のBCB-I型、同II反射傘より大きな閃光電球で、プロでないと扱いが厄介なものであったのでしょうか。
投稿: ふみとパパ | 2010年12月 9日 (木) 22時17分
1954年というと、ライカM3が発表・発売され、ニコンS2も発売された年ですね。
4月にケルン市で開催されたフォトキナでライカM3が衝撃のデビューを行い、当初は5月に発売が予定されていたニコンS2は、発売を延期して改良(レバー式巻上げ、クランク付巻き戻しノブ、等倍ファインダー等)を行い、12月10日の発売となりました。
又、ガタピシさんが書かれているようにコダックからトライXが発売された年でもあります。
1950年代後半からのカメラは、それまでのスプリング式カメラや6×6判の二眼レフ、距離計式FPシャッターカメラから軽快なレンズシャッター式カメラや一眼レフカメラへ需要が移り、かつ増大していきます。
これらへ対応するために1955年頃から日本の大手カメラメーカーは、生産方式の合理化・自動化を進めます。
カメラボディやレンズ部品製造に自動機や専用機などの量産向けの工作機械をドイツ、スイス及び日本の工作機械メーカーから導入し、機械切削に代わるプレス、ダイキャスト、プラスチック成形品などの採用を拡大していきます。
これらによる高精度部品の大量安定供給は、組立ラインにベルトコンベアの導入を可能とし、従来の熟練労働者による少量生産から若年未熟練労働者(若い女性など)による大量生産が可能になったわけですね。
1960年代からの日本のカメラは、過去の模倣と低賃金への依存から大量生産を基にした高品質で安価な商品へと変わっていったといえるでしょう。
この頃になると海外からの技術導入も少なくなり、当時の旭光学工業が米国のOCLI社から導入した多層膜コーティング技術程度とされています。
投稿: MARK12 | 2010年12月 9日 (木) 23時35分