« きょうから、ニコン。 | トップページ | テレ・コンバーターTC-14の兄弟 »

日本光学の誕生 岩崎小彌太氏と和田嘉衡氏の役わり 「ニコンの軌跡」2より

先日の「きょうからニコン」や「藤井光蔵氏の懐旧談」に次いで少々無理やりですが、関連のある話題と言う事で、こちらを紹介します。
2437s(光友437号より)
こちらに出てくる岩崎小彌太氏は日本光学設立に尽力し、近年話題の岩崎彌太郎氏の弟の岩崎彌之助氏の長男で、「岩崎小彌太物語」を見ていただくと人となりが分かっていただけると思います。
また、和田嘉衡氏は和田計器製作所(後の東京計器)の創設者で、一部上の説明にあるように、岩城硝子製造所(探照灯反射鏡部門)と東京計器製作所(光学部門)から受け継ぎ(買収)設立された日本光学での初代社長(当時東京計器社長兼任)でもありました。

|

« きょうから、ニコン。 | トップページ | テレ・コンバーターTC-14の兄弟 »

Nikon etc.」カテゴリの記事

コメント

第一次世界大戦のとき、光学兵器の補修、修理に使う光学ガラスの供給は第一次世界大戦前、どこの国もドイツからの輸入だったため、実に困ったそうです。

第一次世界大戦終了にともない、日本光学設立もふくめ、海軍はますますアメリカが仮想敵国としての比重が高くなることを認識していたため、第一次世界大戦末期に設計されていたアメリカ東海岸で作戦行動が出来る大型Uボードの建造技術、潜望鏡製造技術、光学兵器用の光学技術を敗戦国のドイツ政府とドイツのメーカーからライセンス料を含む秘密契約を結ぶために、ドイツに行ったのが、当時の川崎重工社長。

表の理由は川崎重工の社長は美術品のコレクターだったので、戦争が終わったのでヨーロッパに美術品を買いに行くとゆうもの。

本当の理由はドイツ政府とドイツのメーカーと秘密裏に接触して上記の技術を手に入れるため。
ドイツ側は敗戦後、軍事力の縮小が要求され履行させられることが分かっていたため、潜水艦の建造技術の保全を行うことが出来るため、日独の利害は一致していたため、秘密契約の締結。
技術者の家族も含めて、日本に観光旅行の名目で、日本に来たとのこと。

1980年代に公表されたので、この時、日本に派遣されてきた技術者の娘さんがまだ存命中で、彼女の証言によると日本政府の待遇は破格で、庭師がいつも庭を手入れする庭付きの豪邸を各技術者に官舎として提供。
しかも通勤のため、住み込みの人力車夫付きの人力車があり、母親の家事を手伝うメイドと私の面倒を見てくれるメイド、計二名が住み込みでいたとのこと。
給料は技術者の家族同士でホームパーティーか行えるだけの給料を払ってくれたとのこと。

日本の政財界と軍部とが組んだ自国の安全保障を得るための一大プロジェクトだったことになります。

これはその裏付けになる資料になりますね。

またドイツの陸軍関係では戦車の製造と戦車と空軍力の合同による集中投入による電撃戦を行うための技術を保全しおこなうため、ソ連とやはり秘密条約(ラッパルロ秘密条約と呼ばれている)を結んでいます。

投稿: ガタピシ | 2010年11月20日 (土) 19時36分

今回のコメントは、なかなか興味深いですね。これで何年の出来事か、名称、人名などがちゃんと記載されていれば、もっと良いと思います。

以下は、具体的な年月や固有名詞を出来るだけ入れ、簡単な時代背景なども加えたものです。読まれる方は、両方のコメントを見れば、より理解が深まるものと思います。

第一次世界大戦(1914-1918年)後の1921年11月12日~1922年2月6日のワシントン会議での米英仏日による四ヶ国条約の調印に伴って日英同盟が廃棄となり、日露戦争以来の有力な同盟国を日本は失います。

イギリスとの同盟を失った1920年代以降、日本はドイツに接近します。日本が求めたのは最新の軍事技術であり、既述のコメントにもあるようにUボート等の潜水艦建造技術や光学兵器の製造技術などがあったわけです。
しかし、当時の敗戦国ドイツはベルサイユ条約によって空軍や潜水艦の保有も認められず、軍備は厳しく制限され、軍事技術の輸出も禁止されていました。
そこで日本とドイツ、水面下の交流を活発化させます。

(株)川崎造船所(神戸)の設立は1896(明治29)年で、川崎正蔵氏が後継者に選んだ初代社長が松方幸次郎氏です。
現在の川崎重工の発祥は、創業者の川崎正蔵氏が川崎築地造船所を開設した1878(明治11)年まで遡ると思いますが、前身の(株)川崎造船所が社名を川崎重工(株)と変更するのは、第二次世界大戦が勃発後の1939(昭和14)年12月のことです。
実は、2002年からつい最近まで分社化により造船関係は、川崎造船(株)の社名が復活していたのですが、2010年10月に再統合され、再び川崎重工の名称に戻っています。

松方幸次郎氏は、1928(昭和3)年までの32年間に渡って社長を務め、その後の川崎重工のの発展の基礎を作った人物と云えるでしょう。
松方幸次郎氏は、美術品の収集家としても知られ、私財を投じて収集した「松方コレクション」は有名ですね。
松方幸次郎氏は、数度に渡り欧米を外遊していて、社長業の後半は、ロンドンやパリに滞在していた期間の方が長かったとも言われています。
1920年当時、ドイツに滞在していた幸次郎氏に日本海軍からの連絡と要請が入り、ドイツ潜水艦技術の導入に同氏が大きな役割を果たしたようです。
潜水艦技術だけでなく川崎重工のグループがその後に手がける鉄鋼や航空機、車両や鉄道等の技術導入にも注力したものと思います。

一方、ドイツは軍事技術を巡って、当時日本以外の他の国との関係も深めていて、1922年にドイツとソビエト連邦の間で、国交の正常化を図るラパッロ(Rapallo:ラパロとも表示)条約を締結します。
このイタリアの地で結ばれた条約は、秘密軍事協定としてのソビエト領内におけるドイツの軍事訓練等を認めるなどの秘密の付帯事項もその後に締結されました。
これでドイツは、本国では作ることが許されなかった軍事拠点を次々にソビエト国内に作っていきます。
リベックの飛行機学校ではパイロットの育成を続け、カザンに作られた戦車学校では、戦車の操縦訓練の他に戦車の開発や量産化のための種々の試験を行っています。
トムカの毒ガス実験場では、毒ガス弾の発射や戦闘訓練を共同で行っています。

投稿: MARK12 | 2010年11月22日 (月) 21時10分

ビデオで録画してあるのですが、それがベーターなので、書くにあたりこれ以上のことはかけません。

これはNHKの大型プロジェクト番組で、この頃はこうしたNHK特集の番組は書籍として出版されているので、その本を探してはいるのですが・・・

投稿: ガタピシ | 2010年11月23日 (火) 11時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/185882/50025151

この記事へのトラックバック一覧です: 日本光学の誕生 岩崎小彌太氏と和田嘉衡氏の役わり 「ニコンの軌跡」2より:

« きょうから、ニコン。 | トップページ | テレ・コンバーターTC-14の兄弟 »