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55回目の夏 「ニコンの軌跡」4より

ニコンの軌跡4回目には昭和8年5月の光友より大井新工場竣工の写真が載っていました。
これは、現在の株式会社ニコン大井製作所101号館で、この記事にもありますように、関東大震災クラスの地震の倍程度の規模でも耐えられる強度設計がなされているようです。
4439s


Photo
大井工場新築披露の際、関係者に配られた記念品の画像です。
以前に、ネットオークションでこれが出品され、数万円以上の値で落札されたのを覚えています。
珍品ですので、欲しかったのですが、競り負けてしまいました。


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Nikon etc.」カテゴリの記事

コメント

光学兵器は国防を左右するからでしょうね。

東京大空襲の時、鉄鋼弾も跳ね返したとの記述もあります。

硫黄島陥落後のB29の空襲に使用された爆弾は、日本の焦土化が一番効果があるとゆうことで、工場を破壊する大型鉄鋼爆弾から、鉄鋼弾は小型のものになり、焼夷弾を多く搭載するようになり、この焼夷弾もそれまでの焼夷弾と比べて威力は増し、クラスター爆弾のように小型の焼夷弾が別れ、棒状で火が出ている方が上になり、その棒は人体に刺さるように設計されていたとのこと。

B29による大型鉄鋼弾を主力とした工場への精密爆撃がうまく行かなかったのは、AFの原理と自動操縦を組み合わせたノルデン式照準器のデーターインプットの速力のデーター入力がジェットストリームの影響で、対地上速度が速くなりすぎ、データー入力が出来なかったこともあったようです。

ノルデン式照準器は枢軸国側に渡っていないことになっていましたが、日独とも撃墜したアメリカ軍機からほぼ無傷のノルデン式照準器を手に入れており、日本では日本光学の二人の若手技術者によるデットコピーが行われています。

若手の技術者によるとゆうのは安易にみていたからではなく、将来の日本光学を背負う実力のある若手技術者であったからで、この二人の若手技術者は戦後、二人ともニコンの社長に就任しているそうです。

この資料は持っているのですが、まだ資料を探す余裕がないので、これでとゆうことで、ご勘弁ください。

投稿: ガタピシ | 2010年11月29日 (月) 12時14分

今回のコメントもどうやら記憶のみを基に書かれているようで、突っ込みどころが多々あるのですが、突っ込みご勘弁のように書かれていますので、ほんの一部のみ・・・。

「鉄鋼弾」は、単純に「徹甲弾」の誤記と思いますが、徹甲爆弾のことでしょうね。
焼夷弾は例えば長さ50cm位の六角形の断面の子焼夷弾を束ねた集束焼夷弾のことでしょうが、投下された子焼夷弾が運悪く人体に当たる可能性は否定しませんが、棒状というよりは筒状ですよ。先端は尖っていません。

ノルデン爆撃照準器(Norden bombsight)を簡単に云えば、光学照準器とジャイロ機構を一体化させて、これに自動操縦装置をリンクさせて命中率を高めたものですね。
爆弾投下前の数秒間、爆撃手が照準機を操作して機体を最適の位置に誘導するものです。

日本も鹵獲・回収したノルデン式全自動爆撃照準器を模倣し、試作品を製造して試験しましたが、改良の余地も多く、量産までには至らず、結局間に合わずに終戦を迎えます。

投稿: MARK12 | 2010年11月29日 (月) 21時42分

焼夷弾は尖ってはいませんが、横浜大空襲体験者の資料により知りました。

筒状の焼夷弾が人体に刺さるように改良されていたようです。

資料を手放さなくてはならなかったこともありますが、アメリカの日本空襲に向かう前の機体に積み込まれた焼夷弾を確実に搭載されたか確認しているアメリン軍の士官が点検している写真をみたことがあります。

焼夷弾と轍甲弾とは混ぜられていたとのことですが、爆弾関係の資料は持っていなかったので、どれがどうだか分りませんでしたが。

ノルデン式自動照準器の爆撃手が操作した照準器をマンガ家の松本零士氏が所有しているものを雑誌で見たことがあります。

ノルデン式自動照準器はアメリカで完成したとき、軍関係者が驚くほど取り扱いは簡単だったとゆう話を、父から聞いたことがあります。

私の父は旧制の商業を卒業した後、兵役年齢になる前、動員されるのもおもしろくないからと軍事工場に経理として就職しているはずなのですが、技術者の所に書類や非交戦国や中立国から入手した欧米の当時の最先端の軍事関係の技術書を持って行く仕事もしていたようで、年齢の近い若い技術者から当時の最新軍事技術と、工作機械の技術をかなり教えてもらったとのことでした。

投稿: ガタピシ | 2010年11月30日 (火) 12時30分

MARK12さんへ。

日本に使われた焼夷弾の資料が見つかりましたので、資料から転載いたします。

日本の空襲に使われた焼夷弾は収束焼夷弾といい、投下された親爆弾一発が38発もの小爆弾に分離。
1個の子爆弾は8cm×60cmの鉄の六角棒。
貫通力が高まるよう向きを垂直に保つためのリボンが燃えつつ、大量のそれが逃げ惑う人々に一斉に降り注ぐ。
人々と街が燃えて行く・・・

ドイツ空襲に用いられた無差別飽和爆撃が行なわれたので、精密爆撃は必要としなくなったのです。

投稿: ガタピシ | 2010年11月30日 (火) 19時53分

ガタピシさんは、もしかしたら人馬殺傷用破片弾の破砕弾であるT4E4 500ポンド(約225Kg)破砕集束弾と混同されているのかもしれませんね。
破砕弾は焼夷弾ではなく爆弾の一種で、爆発によって多量の鉄片を飛散させて人員の殺傷や機材の破壊を狙うものです。
破砕集束弾は、20ポンド(約9Kg)破片弾(M41)を20発集束したクラスター爆弾です。

都市工業地域に対するB-29の高度約1,500mの低高度夜間焼夷弾攻撃に多用された代表的な焼夷弾にE28、E36、E46、E48の各型の500ポンド集束焼夷弾があります。
E28、E36、E46は、重量6ポンド(約2.7Kg)、長さ50cm、径8cm程の細長い六角形の金属筒のゼリー状のナパーム剤を使用した焼夷弾(M69)を38発内蔵したクラスター焼夷弾で、
E48は、重量8.7ポンド(約3.9Kg)のナパーム黄燐焼夷弾(M74)を38発内蔵したものです。

M69等の焼夷弾は、燃えやすい家屋が密集した日本本土の都市攻撃用として米軍が1942年に開発したものです。
弾尾には減速と安定化のための麻布製の長いリボンが付いていますが、火薬の爆発力で空中に散布された時にリボンに火が着くので、空中に火の雨が降るように見えることがあります。
M69焼夷弾は、人体ではなく標準的な日本の木造家屋に突き刺さるように設計されています。
屋根瓦を貫通しても天井を完全に突き通さないような設計です。そのときに焼夷弾の頭部(先端)の信管が作動して着火したナパーム剤を撒き散らすようになっています。
屋根と天井の間で止まることを狙っているのは、天井を貫通して下の床まで達すると消火され易くなるからです。
開発当時は、典型的な木造の日本家屋のモデルを作って実験までしています。

投稿: MARK12 | 2010年11月30日 (火) 20時30分

私のは横浜大空襲の資料からです。

家屋に刺さり、屋根を貫通しないのであれば、人体に刺さっても不思議はないと思います。
体験された方たちの証言資料からですから、私の資料にはそこまでの詳しい性能は出ていません。

人口密集地帯で、爆撃目標の地域は四方逃げ道を炎の壁で囲まれて絨毯爆撃を行っているので、この空襲方法から生き残れた人たちからすると、人体に刺さって燃え死んだ人を見ているはずなので、この記述になっても不思議はないと思います。

MARK12さんのような専門知識による記述も良いとは思いますが、私たちがこの世から離れる前に専門性はなくてもこうした悲劇があったことだけはこの世の後世の人たちにに語り継がれるようにすることも必要だと思うのですが。


投稿: ガタピシ | 2010年12月 1日 (水) 10時43分

ガタピシさんへ

私が問題にしているのは以下の書き込みの部分だけです。
「・・・その棒は人体に刺さるように設計されていたとのこと。」

ガタピシさんは、はっきりと「人体に刺さるように設計されていた」と言い切っているのですよ。
だからその根拠なり引用先なりを示して欲しいと言っているのです。

人体に当たって結果的に刺さったのと最初からそれを狙って設計されていたでは大違いですよ。
この件は、歴史的な事実としての問題にも絡むのでちゃんと説明して欲しいです。
該当の焼夷弾が人体に刺さることを前提に検討された、あるいは設計された、またはそれを前提にした実験が行われたという
公的な文書や画像、映像等があるのなら紹介してください。

それとも「人体に刺さるように設計されていたのではないかと自分は想像しました」などと個人見解であったと訂正されるのなら、何も問題視しません。
せいぜい発言の仕方や書き方には十分気を付けてくださいと言うだけです。

尚、ガタピシさんが転載した横浜大空襲の資料からの体験者の証言内容自体には、何の疑問点もありません。
体験者の方の名誉のためにも書き添えておきます。
ガタピシさんが個人的な思い込みで勝手に解釈した上で、ネット上に断定的に書き込んだだけだと思います。


◆ガタピシさん(本ブログ・コメント欄でのHN)と私は、ネット上での付き合いは10年近くなるのではないかと思いますが、
某掲示板でも、こちらのブログのコメント欄への書き込みについては、記録として残るので注意をお願いしました。
このブログをガタピシさんに紹介したのは私なので、それなりの責任を感じているのです。

テーマに沿ったあるいはコメントの流れに沿った内容の書き込みに努めると共に、出来るだけ間違った書き込みをしないように、書き込む前には十分な確認をされるように希望します。

投稿: MARK12 | 2010年12月 2日 (木) 20時25分

私の持っている資料の古さ、思い込みがあるとすればそれは私がその時代に感じたこと書いているからかもしれません。

私だけでなく雑誌の読者のページを読んでいると、投稿者、編集サイドでの間違いを感じることはあります。

私にも思い込みとかん違いはありますが、MARK12さんも思い込みとかん違いもありますよ。

昭和40年の大卒の初任給のところで、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の初任給が2万1千円とありましたが、この時代、第一勧業銀行は存在していません。

この時は第一銀行と勧業銀行とに分かれていて、第一銀行は普通の銀行ですが、勧業銀行は特殊銀行に分類される銀行で、政府系の銀行です。
昭和40年の初任給の2万1千円とゆう数字はどちらの初任給なのか、調べて書かなくてはならなかったのではないでしょうか。

昭和40年当時、2万1千円の初任給は東京六大学出身者で一流企業に就職した人でも普通にもらう金額とは思えないのですが。

第一勧業銀行は第一銀行と勧業銀行が昭和59年に誕生した銀行です。

私も気を付けるようにはしていますが、MARK12さんもお気を付けください。

これ以上、この事に関しての書き込みは終了したいと思います。
管理人さんにもご迷惑をおかけしますので。

投稿: ガタピシ | 2010年12月 3日 (金) 16時03分

突然、以前の話での書き込みに関する指摘をされているので、先ずは答えておきます。

第一銀行と勧業銀行の合併は1971年(昭和46年)のことですから、ご指摘通りに1940年当時には第一勧業銀行は存在しませんね。
銀行名に関しては明らかな間違いなので、この部分は当方の間違いです。
銀行名と初任給の額は、Web資料からそのまま引用したものですが、初任給の額については複数の資料を調べて妥当と判断したものでした。
調べているときに高度成長時代に入って急激に初任給が上昇したものだと感じたものです。いずれ再調査するつもりです。

誰にでも間違いはあるものですし、お互い間違いを少なくする努力は必要ですが、重要なのは自分で間違いに気付いたとき、あるいは間違いだと指摘されて、その間違いが分かれば、間違いであったことを率直に表明し、訂正することですね。
私も指摘されて、それが妥当であれば率直に認めますよ。
質問されれば出来るだけ答えるつもりです、話をそらしたりはしませんよ。

ガタピシさんには、それが出来ますか? これまでの言動をみると・・・。
今回の質問にも結局何も答えずに、話をそらそうとするばかりですね。過去の私の書き込みのミスでも探したんですか?
そんな暇があったら質問の答えでも調べれば良いのにと思いますよ。手持ち資料が有るとか無いとか、古いとか新しいとか関係ないですよ。
インターネットが利用できる環境にあるのならいくらでも調べられるでしよう。

11月の原潜ミシガン云々の件では、唖然とするような結末の対応をされましたね。
返答に窮したら、一言も非を詫びずに、これで終わりますの一人宣言。
今回も終わり宣言ですか。いいでしょう。

投稿: MARK12 | 2010年12月 3日 (金) 21時48分

私のHP、MARK12さんのHP、もしくはお互いのメールアドレスでしたなら、私も色々と書きますが、あくまでここは第三者のHPでありますから、これ以上のことになりますとここの掲示板を荒らしてしまいますので、私は下がります。

MARK12さんも大人なのですから、荒らしてしまうかどうかをお考えください。

投稿: ガタピシ | 2010年12月 4日 (土) 19時17分

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