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藤井光蔵氏の懐旧談 

序文によると、「左の一文は第一次世界大戦当時藤井光蔵氏が欧州に於いて、当時我が国の最も困窮せし光学ガラスの獲得に苦心せられ、また飛行船襲撃中英国戦時に於ける光学兵器供給の情況を視察せられたる当時の懐旧談にして、大東亜戦争の今日大いに参考となるものなれば乞うて本誌に載せる事に致しました。」とあります。
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4s(光友昭和17年10月号より)
この後の資料を持ち合わせておりませんので、尻切れトンボになってしまいますが、この部分だけでも当時の状況を伺い知れてなかなか面白い資料ではないかと思います。

続編へ続く

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コメント

藤井光蔵氏については、こちらでも2009年11月の記事の「藤井光蔵 ドイツ人技師の在社当時の想い出」で語られていますが、日本光学工業の設立に関わった藤井レンズ製造所を創立した藤井龍蔵、藤井光蔵兄弟の一人ですね。両氏共に日本光学では取締役になっています。

兄の方の藤井龍蔵取締役は、1919年(大正8年)の7月から翌年の12月までドイツ人技師招へいのためにドイツへ出張していますね。
ドイツ人技師は、1921年(大正10年)年の1月から6月にかけて8名が着任しています。

今回の藤井光蔵氏の懐旧談は、光友昭和17年10月号に掲載ということで、1942年になりますが、この年の7月は日本光学の創立25周年記念式典が行われ、「日本光学工業(株)25年史」が刊行されています。
前年の昭和16年1月には、倒分像立体視式15m二重測距儀が完成し、戦艦大和と武蔵に装備されています。

日本光学工業株式会社は、1917年(大正6年)7月25日に東京市小石川区原町の東京計器製作所内に三菱造船(三菱合資会社社長岩崎小弥太氏)の出資をもって設立されたのが最初ですね。
初代社長は東京計器製作所の創設者でもある和田嘉衡(よしひら)氏でした。
同年8月に東京計器製作所の工場の一部(光学部門)を買収し、機械設備を引き継ぎます。
又、サーチライトの製造を行っていた岩城硝子製作所の探照燈反射鏡工場の一部を買収し、機械設備を引き継ぎます。
12月には藤井レンズ製造所を買収し、工場など営業の一切を引き継ぎます。
翌年の1918年1月には大井第一工場が完成し、2月には本社を大井町に移転します。
3月には大井第ニ工場が完成し、4月中旬に岩城硝子製造所内の諸機械設備を大井に移転します。
この段階で日本光学工業が本格的にスタートしたとも見なせるでしょうね。

尚、東京計器製作所は、1896年に日本初の計器工場の和田計器製作所として東京・小石川で圧力計を製作開始し、1902年に合名会社東京計器製作所となり、1917年に株式会社東京計器製作所に改組したもので、その後の(株)東京計器です。一時は社名をトキメックに変更していましたが、2008年に東京計器の社名に戻しています。同社は防衛関係のメーカーとしても知られています。

岩城硝子製作所の方は、その後の岩城硝子(株)で、1999年に東芝硝子と合併し、旭硝子の資本が入っていることもあり、旭テクノガラス(株)の社名に変わっています。

投稿: MARK12 | 2010年6月24日 (木) 20時57分

●ニコン黎明期の史料、勉強になりました。カメラやステッパーのトップメーカーの印象が強いですが、そもそのは「兵器の眼」を造り込むことが使命であったことを改めて理解した次第です。
●日本自体が工業国ではなかったために、素材である硝材の入手に労苦を費やしたことに驚きました。製品になっているものからレンズ・プリズムを外して転用するあたりは苦し紛れというか何でもありという感じです。またドイツが「戦略」として硝材を抑えていることに唸らされたとともに、フランスは自国で生産していた事実は驚きです。

投稿: ふみとパパ | 2010年6月26日 (土) 19時23分

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