Nikkor銘のPB-3
画像は前期のNIKKOR FフォトミックTとNikkor銘のベローズ3型、マイクロニッコールオート55mmF3.5の組み合わせです。
(Nikon COMPENDIUMより)
ニッコール銘のニコンFは以前に紹介しましたように、昭和37年9月から昭和45年1月までの出荷で、僅か7年4ヵ月ですが、その間のアクセサリーや説明書も銘部分を差し替えた物を用意しての出荷でした。
いまでは海外向けと国内向けで製品名の違う物もそれほど珍しくはないのですが、アクセサリー関係まで変えての出荷は、それもヨーロッパの一部の国のみとなると、現在でもあまり聞かないのではないかと思います。
当時はニコンと言えば、日本光学のカメラを主にまだ指していましたが、それをレンズのブランド銘での出荷という苦肉の策?をとってでも、ドイツへ出荷することに相当の意義があったのではないかと想像を膨らませています。
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コメント
まだ途上国だった日本が、カメラの最先端のカメラを造っているとゆう自負を持っていた西ドイツへカメラを輸出することはものすごいく意義があったことだと思います。
ニコンがニコンのブランド名で西ドイツに輸出できるようになったのは、当時の最先端精密機器であるカメラの王者の座が変わったことを西ドイツでも認識するようになったからでしょう。
ドイツではなく、西ドイツと書いたのは当時は米ソの冷戦構造化で、ドイツは東西に分断されていたからです。
ツァイスは東西に分割されたとき、ツァイスの主力工場は東ドイツ側にあったので、戦後のスタートは大変だったと思います。その他にもツァイスはユダヤ資本による会社であり、優れた技術者もユダヤ人だったので、ナチスドイツによって大分痛めつけられていましたから。
このタイトル読んで思い出し笑いしてしまうのが、M3型ライカ。日本でライカブームが起きていたとき、ヨーロッパ旅行に行く時、旅費に困ったらカメラを売って旅費にしようとしてライカM3を持ってゆき、西ドイツで旅費に困るようになったので、ライカを持って西ドイツのカメラ屋で売ろうとしたとき、西ドイツのカメラ屋の親父に「バカヤロウ。こんなボロカメラ持って来るンじゃねえ、日本人だったらニコン持って来い」と、どやされた話を思い出します。約30年前の話ですが。
投稿: ガタピシ | 2009年5月 3日 (日) 08時48分